熊本県立図書館蔵
御内意之覚
中山手永御惣庄屋ニ而
病死仕候矢嶋忠左衛門倅
矢嶋源助
右者親跡相当ニ被召出砥用手永御山支配役
被 仰付被下候様委細太郎八より御内意仕置候
處津直支配所内ニ而無余儀繰合せ之筋
有之此節申談右御山支配役被 仰付被下候様
奉願候儀は御取捨被下左候而親跡相続被
仰付候上当七月病死仕候池田瀬左衛門跡南
関手永唐物抜荷改方御横目在勤中
緒役人段被 仰付被下候様於私共奉願候左候ハバ
御郡代手附横目並内田会所見締兼帯
申付度奉存候右ニ付而内実之事情は巨細
口達を以御内意仕置候色々御座候間彼是可然
被成御参談可被下候 以上
九月 杦浦津直
蒲池太郎八
※上記覚は初め蒲池太郎八名で「砥用手永御山支配役」へ推薦していたものを「南関手永唐物抜荷改方横目役」へ変更されている。その理由について「津直支配所内ニ而無余儀繰合せ之筋有之」、「内実之事情は巨細口達を以御内意仕置候色々御座候間」と歯切れの悪い弁明をしている。杦浦、蒲池は下益城郡代である。
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覚
中山手永御惣庄屋並
御代官兼帯ニ而病死
仕候矢嶋忠左衛門 倅
矢嶋源助
右者別紙申立之趣ニ付見聞仕候處人物
宜筆算相応ニ仕才力も有之候由之處些
出過候生質ニ而人和薄様子ニも御座候得共
御郡代手附横目役之儀は抑揚筋之取扱は
無之且内田会所之儀間ニは不締之儀も
有之哉ニ御座候処源助儀手強仕懸も有之候
由ニ付申立之通被 仰付候而も相勤可申
人物と相聞申候尤亡父勤年数之儀本紙
書面之通承申候 以上
卯十月 渡邊平兵衛 印
※ この覚は郡代に提出する矢嶋源助にたいする内申書である。これを作成したのは中山手永郡代手附横目の渡邊平兵衛であった。郡代手附というのは御惣庄屋と同格であり、職務上は同僚でもあるので、平兵衛にとって同僚の子の考課をするのは気の重いことだったろう。けれども彼は源助の人となりを公平に評価している。「些出過候生質ニ而人和薄く」と源助の欠点をよく見抜いている。
源助は横井小楠の弟子であったことから明治3年には中央政府に登用され「大丞」という職に就く。これは土木職の高官であったが、「出過候生質」が禍して上役に憎まれ、左遷の憂き目に遭って郷里杉堂村に引っ込まざるを得なくなる。
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僉議
源助儀達之通ニ而父矢嶋忠左衛門御惣庄屋
被 仰付惣年数三十八年之勤ニ而相果候付
極之通御郡代直触末席可被
仰付哉且直ニ砥用手永御山支配役被
仰付在勤中諸役人段被 仰付被下候様
達之通御座候處猶御郡代申談之趣
有之右之達は御取捨被下南関手永
唐物抜荷改方御横目被 仰付被下候様
左候ハバ御郡代手附横目並内田会所
見締兼帯申付有之度由別紙
達之通ニ付南関手永唐物抜荷
改方御横目被 仰付在勤中諸役人段
可被 仰付哉
右僉議之通卯十一月十一日達
※僉議は熊本城内郡間で奉行たちによって行われる。そこに郡代も同席するのであろう
「口達を以て御内意仕置候」という文言があった。