2019年4月2日、矢嶋四賢婦人記念館がオープンしました。同館は津森小学校近くにあったのですが、熊本地震の時に被災して使えなくなつたため、今度は杉堂集落の潮井水源近くに建て替えられました。建物の壁は土色ですが、似せてあるだけで土ではなく新建材のようです。
藩政期は茅葺きの住居でしたが、明治になつて矢嶋源助の時に葺き替えられたようです。家構えの大きさが目立ちますが、庄屋の家はどこでもこんなものでした。
村庄屋は御惣庄屋からの指示を周知するために百姓たち全員を屋敷に呼び寄せて指示文書を読み聞かせていました。そのために庄屋の家は広さが必要だったのです。
展示物機織機 鶴子の物?
安政2年(1855)矢嶋忠左衛門が堅志田村の御惣庄屋役宅で病没すると一家はこの家に帰ってきます。
この機織機はそのころ楫子が使っていたと説明がありました。楫子の前は母の鶴子が使っていたのでは、と質問したら記録に遺っていないので、それは分からない、との返事。
矢嶋鶴子は文政2年(1819)この家に嫁に来て以来、家族の着る物などは、すべて一人で織っていたといわれますから、愛用の織機を持っていました。それがこの織機である可能性は否定出来ないのですが、少し部材が新しいようにも思えます。
黒光りして使い込まれた跡が見えれば鶴子の線も可成り有力なのですが、証拠がないと言われれば引き下がるよりないですね。