盬平勢衰記
大塩平八郎乱妨 之一件
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天保丁酉年三月十九日大火大変ニ而大坂市中大騒動ニ及ひ候
其根本を尋るに天満川崎四軒屋敷住人東組与力之助
大塩格之助(平八郎養子当時御普請相勤)其父平八郎(当時隠居中齊与号)両
人如何成
所存哉内々隠謀之企をなし密々徒党の者をかたらひ已前
より大筒の木筒棒火矢玉薬なと作り当年米価高直
(乱妨前迄二百目大火後二百三十目余)諸人困窮之節を見かけ自分(平八郎)
所持之書物を売払(売高凡四拾貫目余)身分ニ不相応之施行を行(一人を以て
壱朱宛遣し候由)近在の百姓
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共の心をなつけ抔 いたし専時節を伺ひ候處西御奉行堀伊
賀守殿着坂ニ付東御奉行跡部山城守殿同道ニ而二月十九日組与力
同心之町々巡検ニ相定られ候事を平八郎聞伝へ十九日両奉行を
飛道具ニ而打んと内々其用意ニ及ふ所柯擔連判之内平山
助次郎(東組同心目附役勤)反忠致し十七日の夜東御奉行跡部山城守殿江
密々大塩父子隠謀之義を訴へニ及ひ候ニ付十九日巡検之義ハ延引
ニ相成平山ハ山城守殿より書状被差添夜中竊ニ江戸表江出立
させられ候得とも未た実否相分り不申故大塩父子召捕も
相ならさる處 又逆徒之内東組同心吉見九郎右衛門変心致し
大塩父子隠謀之趣を委ク認メ同人倅莫太郎 同心河井
郷右衛門倅八十重郎両人を以テ訴へニ及ひ候故弥平八郎父子
謀反之趣决西東御奉行内寄御相談御評議之うへ
十八日泊り番東組与力瀬田済之助与力小泉渕次郎
両人とも平八郎ニ一味合体いたし候事明白ニ付実否御糺
之前小泉ハ返答に差つまり迯出し候を山城守殿近
習一条一与申仁追かけて遠国役所ニ而手打ニいたし
候處渕次郎ハ即死ニ及ひ済之助ハ迯のひ御役所之鎮
守之祠江掛上り塀を乗越迯行候(十九日之朝七ツ時比)是よつて
御役所ニハ大塩召捕之御評議まちまちニ而先大納与五
郎(東組与力平八郎伯父)を召連大塩屋敷へ参り罪之次第申聞せ切
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腹致させ候へし違背ニ及ひ候ハゞ差違ても仕留候様命せ
られ候ニ付興五郎ご役所より立出候故定メ而平八郎方江
参り可申与存之外平八郎之武芸ニ怖れ候にや途中より
不快之由申立罷不越迯失申候是ニ依而又々評議之上
東組与力萩野勘左衛門 西組与力吉田勝右衛門両人江
大塩父子召捕可来様命せられ候処萩野勘右衛門申候ハ未
た虚実も聢と相分らす其上飛道具ニてふせき可申用
意等仕候上ハ容易ニ捕方差向加田清申ニ付又々
評義有之候内大塩屋敷にハ済之助迯帰り隠謀露
顕有之由注進ニおよひ候と申ニ付平八郎初其他一味之
者とも寄集り銘々甲冑或者小具足に身をかため
兼而手筈をいたし置候にや未明より河内在之百姓共
大勢寄集り候を一手ニなし酒宴等催し鉄炮之
筒ためし致し候其音夥敷近隣の屋敷町家は
其騒動の根元を存せさる事故何事にやと不審ニ思
ひ候内平八郎方人数追々馳せ加り辰上刻自分居宅
並土蔵まて大筒を以テ放火いたし東手の塀を切
崩し人数を繰出し大筒ハ車ニ乗て引かせ尤五挺
ほら貝鉦太鼓等を打立陣列を定メ備へを立(三陣ニ立る)
出火見舞ニ来り候もの共を一々に白刃を差つけ此度
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我等窮民を救ひの為大事を思ひ立候汝等も加勢致
へし若違背ニ及び候得ハ切害いたすへし抔とおと
し候故其勢ひニ恐れ無拠加勢随身の者夥敷相成
其者共に抜身之刀等をもたせ或ハ車を曳かせ鳶口
をもたせなといたし先一番ニ朝岡助之丞之屋敷
の東手土塀を切崩し大筒を打込焼立申候
因ニ右朝岡氏ハ(東組与力)御奉行御巡見之節御案内之家
柄にて前書の通当十九日西御奉行堀伊賀守殿与力
同心町巡見之定日と相定り昼飯ニハ東西御奉行共
朝岡屋敷にて遊し候由平八郎兼て其折を伺ひ
西御奉行共失ひ申存心之處前夜訴人有て露顕
におよひ無是非今朝事を発候由風聞ス
扨朝岡屋敷を焼立次に工藤西田何れも大筒を打
込放火し夫より東へ押行川崎与力町一軒も不残
焼立猶逆威ニほこり恐多くも川崎 御宮江も大
筒をうち込焼立纉々天満橋筋の町家へも打込不
残放火し西与力町北同心町迄皆々大筒を以焼立
東寺町より十町目筋江出勿体なくも天満宮へも
大筒打込焼立天神橋北詰め江押行候所早橋を切落し
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候故渡る事不叶又南詰ニハ御公儀方御役人中厳
重に守護なり西筋と浜をこゝろさし行々放火し
難波橋を南へ押渡り今橋通鴻池善右衛門宅江大
筒を打込是も蔵々の戸前を開き火箭打込候事
ゆへ大勢次第に燃上り庄兵衛宅ハ不及申土蔵壱ケ所
も不残焼失す夫より二手にわかれ一手ハ今橋通を東
一手ハ高麗橋通を東江押行三ツ井呉服店岩城呉服
店 恵比須屋呉服店平野屋五兵衛宅何れも土蔵へ
大筒をうち込焼立る
但し平野屋五兵衛宅は凶変を早く告しらせ候者
有之土蔵はしめ目塗をいたせし事ゆへ壱ケ所も土
蔵焼失せす元来平五は平日ゐんとくある家ゆへ
ケ様之大変を早く告る者ありて土蔵を焼れさる
ハ積善之家にて必ず余慶ありとの古語のことし
と皆人称しあへり
扨悪徒ものハ高麗橋を東江渡り南へ行内平野町
米屋平右衛門 同長兵衛宅をも大筒を打込此時大
道ニ而東江向て大筒を放し候 是ハ東より役人来る
と告しもの有し故 なり次ニ大手筋住友甚次郎
宅まて放火し夫より思案橋を西へ渡り談路町
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通を西江焼立候折節南風強く吹出し火勢す
さましく燃上り市中の老若男女途を失ひ放火
せられし家々ハ金銀家財を取のける暇もなく
着のミ着のまゝにて老たるを扶け幼きを抱き女童
ハ素足にて泣叫ひ迯さまひてハ親を見失ひ
子をはくらかし周章狼狽する有様目もあてられ
す遠き町々安治川の末まてを今もや世界大乱ニ及
ふへしと家財を持運ひ妻子を他所の知音或は
寺院なしへ落しやる其騒動大坂中かなへの沸
か如し勿論常の出火と事替り知音縁類の者と
ても銘々迯仕度のミ出火の手伝に来る者一人もな
けれ鉄炮の流玉にあたり疵をかふむり命を落す者
も少からず哀といふも疎なり斯て悪徒ハ段々
西江横行し談路町通堺筋辺追行候處東御奉行
跡部山城守殿御馬印見え候故悪徒より鉄炮数十挺
はけしく放したり御奉行方よりも同じく鉄炮
を妨し其音俄ニ夥しく此時玉造口江御加番遠藤但
馬守殿組与力坂出弦之助と云人(年二十四五才)衆に抽て先に進ミ
紙荷物之陰より鉄炮ニ而悪徒の大筒方の浪人体之者(桜田源右衛門
なり後ニ知る)をねらひ候處大塩方より一人の男(名苗字しれず)固く鉄炮
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をかまへ坂本をねらひけり坂本氏は一心に大筒方の者
に目を付候故是をしらす遙後より坂本氏油断候ゆへ
悪徒方より筒口さしむけ候そとよハわり候へとも両方の
物音に紛れ坂本氏の耳に不入猶も大筒方の者をねら
ひ居けり其時悪徒火蓋を切て放せしに坂本氏の幸運
にや其玉着たる陣笠をかすりつゝ後へそれたり其侭に
弦之助火蓋を切て放せしに過す大筒方の胸板をうち
ぬきけり是に依て悪徒のもの共驚き騒ぎ鉄炮武器
を投捨一同ニ散候を坂本弦之助並山城守殿家来松浦竹
次郎と申仁と両人先ニ進て刀にてまつ大筒の者を二刀
さし猶も力を閃し追散し松浦氏も悪徒の頭立者(名しれず
角力也)壱人切倒し候ニ付敵ハますます狼狽迯散候遠藤但馬守
との組与力石川彦兵衛と申仁も衆ニ先立て悪徒を追払ハれ
し斯て公儀方の銘々ハ悪徒の捨たる大筒(但し木也)並ニ車鉄炮
槍刀等多く分取し中にも彼切倒されし者の首を切
鎗の先につらぬき方々持行悪徒の頭立候者を討取候
間安堵可致旨被仰急々火を防ぎ候へと呼わり候故諸人
少し心を安し候是より大筒鉄炮を打候ものとも一人もな
く常体之火事ニ相成火消人足の者共追々掛付精々消防
候へ共風増々はけしく天満舟場上町三所の火の手
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強く中々人力にハ防かたく相見へ候也船場ハ南安土町西は
中橋北ハ大川東ハ東横堀上町ハ南本町ハ南ハ本町北ハ大川西ハ東
堀東ハ御奉行御役所西隣代官屋敷まて御役所ハ東
西とも無別条牢屋敷ハ焼失す扨天満ハ北ハ女夫池にしハ
森町東ハ川崎南ハ大川まて不残焼失ス十九日辰の上刻
より焼出し廿一日暁方に漸々鎮火申候誠ニ大坂御陣以来
の凶大変に焼失し金銀珍宝幾億万両共かそへかたし
悪徒の者共掠取金銀もまた夥し歎てもなおまりあ
る大騒動なり
右大変ニ付かけ付之大名衆にハ
泉州岸和田城主
岡部美濃守殿 八百余人
和州郡山城主
松平甲斐守殿 七百余人
攝州尼ケ崎城主
松平遠江守殿 八百余人
日佐田陣屋
永井肥前守殿 三百余人
右何れも美々敷大手口京橋口ニ陣を構へられ候
因ニ曰攝州高槻城主も十九日ニ軍粧して御出馬あり
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けれ共御城代土井大炊頭殿より早使を以御差止ニ相成候
是ニ仍て途中ニ備へを立られ候是ハ悪徒所持之鉄炮
之中ニ高槻公之印有鉄炮有之候ニ依る御疑ひ之趣を以御
差止と風聞す
御城中守 ニ者当時御城代
土井大炊頭殿 七百余人
其外西東御奉行ハ諸蔵屋敷より掛附備へを立られ
候あれも廿一日之未ノ上刻ニ各御引取ニ相成申候
扨火鎮り候而後悪徒之行衛厳敷御吟味有之候得共大塩
父子初メ一味之者とも一円行衛相知れす東之御堂之
水道より鉄炮一挺引上ケた四ツ橋辺の川より刀四五腰引
上又死骸一ツ引上る
但し此死骸ハ悪徒の中にハ不有由風聞ス
其余焼場之井戸よりも鉄炮刀兜金銀檄文も引上ケ候由
扨無難之町家ハ夫々私宅江立帰り候得ともまた悪徒之起り
候事も有之哉与危踏家財を納メたる蔵戸前を開かす候
故業体も相休ミ十九日より廿三日頃迄ハ表を〆切見合セ居候
處追々 御公儀様より御触渡有之候故漸々廿三日比より
店を開き業体相初申候扨類焼之難渋人の分ハ
御公儀様より格別之御仁恵之御触有之道頓堀芝居江罷
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越候へとの御事故我も我もと芝居江参り候處則御役人衆より
御痛り有之親椀ニ堅く詰たる大握飯を壱人前一ツ宛勿論
日三度つゝ被下候此御救米入高一日ニ十石余と云斯て三月
上旬ニ相成候御救小屋成就いたし候ニ付類焼難渋人夫々に
行移候旨被仰渡候則處ハ
北組ハ天満橋南詰 天満組ハ天満橋北詰
南組ハ天王寺御蔵跡
右何れも組々の小屋ニ御救之印幟を立られ候小家住之
者ハ御救飯を頂戴ス銘々朝より挊ニ出手元銭たまり候
迄御養ひ被下候との仰渡されにて候誠ニ莫大之御慈悲也
右手元残挊ニきため小屋を出借宅江引移り候者江ハ白
米一斗ト銭弐貫文宛被下候又病人之分ハ近辺之明家
に而保養を加へさせ医師御附配剤させられ候且又
御公儀より有福之町人中へ施行銭差出し可申旨御下
知有之依而思々に差出候鳥目惣高二万三百五拾貫文なり
此銭相場九匁替ニ而銀高二百四拾貫九百弐拾五匁なり右
銭を此度之類焼人壱軒前壱貫文宛被下類焼せさる者迚
別ニ四百文ツゝ被下候其後又 御公儀様より
御救米として現米二千石(尤白米也)三郷借家人共江御施行有
之候壱軒分弐升八合究也元来昨年米不作ニ付当年ニ至