古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

江戸往来2  翻刻版

2017-04-07 00:37:06 | 江戸往来

田鮎、釣瓶鮨、志筑塩辛

欧州鮭、披子籠、盬引、粕漬、

海鏡、同漬菜、味噌漬、鰹節

麹漬、飯蛸、糟漬鰷子籠、同

深山、巣米、粃漬鱒、寒水漬

 

弦、雁、鴨、南部藷蕷、同雉子

鷹、雲雀、梅首鶏、水

札、鶉、川鳥、潮煮之菓子鮑、生干

膾残魚、近干鱵、取交切𩻄(うるか)、

鯖背腸、鰤腸、三州串蜊

 

鯨百尋(鯨の腸)、蕪骨、鮊、目刺、石蚴、

鱲子、鮭甘子、筋子、鳴子、女冠

者白干鯣、七嶋鰹節、松山

鱫鱜、瀬田鱣鮓、醍醐蒸笋、

朝比奈粽、伊予索麪、川俣

 

芋茎、福知山蕨粉、横須賀

卜治、稲荷山松茸、東條烏頭

勢州糸和布、松尾梨子、小布

施栗、、道明寺寒糒、濱名納

豆、善徳時酢、麻地酒、会津

 

蠟燭、炭斗瓢、筑後焼、半田土

鍋風爐、前土器、高山麵桶、片

口、光瀧細炭、一倉炭、御室

焼茶碗、伊万里焼皿、備前焼

徳利、信楽焼水飜、薩摩焼

 

茶入、膳所焼鉢、唐津焼香爐

琉球芭蕉布、同泡盛酒、古筆

新筆之絵讃、異国本朝墨

跡、陸奥、甲斐、伊予、松前、朝鮮

大鷹、(はいたか)、兄鷂(こたか)、鶽、雀鷂(つみ)、萑𪀚

  

刺羽、逸物、仙台、南部、甲府、信

州、土佐、薩摩之駿馬、武具者

鎧、甲冑、太刀、鎗、長刀、弓箭、

鉄炮、玉薬、、箙、空穂、調度掛、

異国船入津之節者、紗綾、縮緬

 

北絹、繻子、珍、綸子、純子、奥

嶋錦、金襴、天鵞絨、毛氈、羅

紗、羅背板、猩々緋、蘇木、紫檀

白檀、檳榔子、沈香、伽羅、肉桂

丁子、大楓子、大服子、附子、紅

 

花、丁香皮小黄連山帰来

麒麟血、阿仙薬茴香、干

竹子、天門冬白荳蔲、赤土、青

黛、、木梨花、明礬(みょうばん)、硼砂、碧礬

胡椒、蘆薈(ろかい、アロエのこと)、辰砂、椰子油、蘓

合油、牛黄、犀角、鹿角、草

茶碗、薬、膽礬、牛角、水牛

角、蠟、漆、紙、墨、筆、卓、香炉、

香合、香盆、花入壺、茶、藤、蘭、

竹櫛、赤熊、白熊、黒熊、象牙

 

水銀、鮫、錫、廣南鍋、龍脳、麝

香、菩提樹、瑠璃、硨磲、瑪瑙 

珊瑚、琥珀、瑇瑁、鼈甲、鹿皮

小人嶋革、烏蛇皮、山馬皮、山

人驢馬、玲瓏犬、麝香猫、孔 

雀、口赤鳥、黄頭鳥、砂糖鳥、

藤鳥、海鳩、長生鳥、錦鶏

鳥、田鶏鳥、白頭鳥、鶊鴣

呼鳥、翡翠鳥、東埔塞鳩(かぼちゃはと)、

金鳩鳥、巣蜜、龍眼

 

肉、三国米、葡萄酒、此外漫々 (此外漫々)

無際限雖営内廣餘置席(際限無ク営内廣シト雖モ席上ニ置キ余って)

上作山于庭中 抑大廈之        (庭中ニ山ヲ作ル)

御構方廿余町也従郊外東

方者、至于八丁堀、木挽町

鉄炮洲、女木、三谷、霊岸嶋而

僅不足十町、是海岸拠

故也、西者至于市谷、四谷、中

野、牛込、小日向、小石川、高田、

雑司谷、千駄木村而二餘

 

 南者至于赤坂、青山宿、一

 木村、桜田、愛宕下、西久保、

 麻布、渋谷、白金、目黒、池上

 芝、品川、、神奈川、而七里、東海

 

道之順路是也、北者浅草

浅茅原、隅田川、千住、板橋

越谷、平柳迄四里也、都而

東西三十四里、南北十余里、大

小名之家々、思々之営作、以

金銀為築地、以珠玉為砂


江戸往来3 翻刻版

2017-04-07 00:36:38 | 江戸往来

石泉水築山構眺望催

日夜佳遊之宴此外所々神

社仏閣逼々、民家小屋、継

軒端建続可立錐無畾地、

草累之武蔵野者、名耳

 

残而有明之月も従家出而

入家歟与被奇候于程、繁

昌豊饒之体、可令想像給也、

斯處東西者地下而濕

深ク、水甚醎故、不忍渇不肖者

 

自馳于東西走南北求水

不得寸暇、家業空費時砕

魂云々 然

貴大君忝遙被聞召行

程十余里当西有玉川

 

水清冷而味俣尋常也、曳彼

於于爰而可令安之条被

仰出之依之掘山穿岩、数月

励成功、遂明暦年中聊無

障来于城下、長流之水、幸

 

成薬、治病除患去渇、里民

快楽何事如之哉、次当于北而

有隅田川、至下而云深川、元

来大河而従往旧無橋、深

事応名千尋而其水奔如

 

矢以舟船雖渡之、風波之災

不任雅意被押流漫々漂

于大海、或逆巻水被覆船、

底之滓成果者不知幾千

万人、此儀又及 高聴之處

 

 

如何而掛橋可令為往還之

通路之由有 厳命而深慮

智化良臣股肱耳目之頭人

衆議評定一決畢而課工経

営之万治年中是又令成

 

就殆可謂魯般雲梯哉、此

方者武蔵、向者下総也、故

呼俗称両国橋往来之旅人

老若男女畏悦挊躍、難有

無云斗自彼橋見渡即

 

安房、上総、筑波山、日光山

浅間嶽、富士高根眼前候、

天晴懸御目度候、速有

御下向而可令歴覧也、将又

当于艮角有景地摸坂

 

西之比叡山被號東叡山

是也、是則

東照宮御鎮座慈眼大師被

仰含之去寛永年中御草創

守当城之鬼門、為悪魔降伏

 

霊場、二六時中之勤行、聊以

無懈怠奉抽誠精境内及十

町四方乎、宮社僧坊雙玉甍、

諸木連枝森々、前湖水称不

忍池、中築一嶋、被安置弁才

 

天、参詣之諸人者解錦之

䌫、桂橈、蘭檝、敲舷謡今様、

亘岩松風、岸打波、頻添颯々

聲、詩人者題池辺之月、

歌人者山頭之花、或樹下

 

敷筵、或芝上設席、林間煖

酒、紅葉之燒物、蘭麝匂芬々而

恰殊聲花、童男童女簪

羅綾袂飜錦繡裔、小歌、三味

線、琵琶、琴、笛、鼓、太鼓、生苔

 

鳥不驚今此御代也、誠以免

伝多久 穴賢

 


盬平勢衰記 1 大塩平八郎乱妨 之一件 翻刻版

2017-04-07 00:35:48 | 大塩平八郎

盬平勢衰記
大塩平八郎乱妨 之一件

1頁 原 画

天保丁酉年三月十九日大火大変ニ而大坂市中大騒動ニ及ひ候

其根本を尋るに天満川崎四軒屋敷住人東組与力之助

大塩格之助(平八郎養子当時御普請相勤)其父平八郎(当時隠居中齊与号)両

如何成

所存哉内々隠謀之企をなし密々徒党の者をかたらひ已前

より大筒の木筒棒火矢玉薬なと作り当年米価高直

(乱妨前迄二百目大火後二百三十目余)諸人困窮之節を見かけ自分(平八郎)                                     

所持之書物を売払(売高凡四拾貫目余)身分ニ不相応之施行を行(一人を以て

壱朱宛遣し候由)近在の百姓 

 

2頁 原 画 

共の心をなつけ抔 いたし専時節を伺ひ候處西御奉行堀伊

賀守殿着坂ニ付東御奉行跡部山城守殿同道ニ而二月十九日組与力

同心之町々巡検ニ相定られ候事を平八郎聞伝へ十九日両奉行を

飛道具ニ而打んと内々其用意ニ及ふ所柯擔連判之内平山

助次郎(東組同心目附役勤)反忠致し十七日の夜東御奉行跡部山城守殿江

密々大塩父子隠謀之義を訴へニ及ひ候ニ付十九日巡検之義ハ延引

ニ相成平山ハ山城守殿より書状被差添夜中竊ニ江戸表江出立

させられ候得とも未た実否相分り不申故大塩父子召捕も

相ならさる處 又逆徒之内東組同心吉見九郎右衛門変心致し

大塩父子隠謀之趣を委ク認メ同人倅莫太郎 同心河井

 

郷右衛門倅八十重郎両人を以テ訴へニ及ひ候故弥平八郎父子

謀反之趣决西東御奉行内寄御相談御評議之うへ

十八日泊り番東組与力瀬田済之助与力小泉渕次郎

両人とも平八郎ニ一味合体いたし候事明白ニ付実否御糺

之前小泉ハ返答に差つまり迯出し候を山城守殿近

習一条一与申仁追かけて遠国役所ニ而手打ニいたし

候處渕次郎ハ即死ニ及ひ済之助ハ迯のひ御役所之鎮

守之祠江掛上り塀を乗越迯行候(十九日之朝七ツ時比)是よつて

御役所ニハ大塩召捕之御評議まちまちニ而先大納与五

郎(東組与力平八郎伯父)を召連大塩屋敷へ参り罪之次第申聞せ切

 

3頁 原 画 

腹致させ候へし違背ニ及ひ候ハゞ差違ても仕留候様命せ

られ候ニ付興五郎ご役所より立出候故定メ而平八郎方江

参り可申与存之外平八郎之武芸ニ怖れ候にや途中より

不快之由申立罷不越迯失申候是ニ依而又々評議之上

東組与力萩野勘左衛門 西組与力吉田勝右衛門両人江

大塩父子召捕可来様命せられ候処萩野勘右衛門申候ハ未

た虚実も聢と相分らす其上飛道具ニてふせき可申用

意等仕候上ハ容易ニ捕方差向加田清申ニ付又々

評義有之候内大塩屋敷にハ済之助迯帰り隠謀露

顕有之由注進ニおよひ候と申ニ付平八郎初其他一味之 

 

者とも寄集り銘々甲冑或者小具足に身をかため

兼而手筈をいたし置候にや未明より河内在之百姓共

大勢寄集り候を一手ニなし酒宴等催し鉄炮之

筒ためし致し候其音夥敷近隣の屋敷町家は

其騒動の根元を存せさる事故何事にやと不審ニ思

ひ候内平八郎方人数追々馳せ加り辰上刻自分居宅

並土蔵まて大筒を以テ放火いたし東手の塀を切

崩し人数を繰出し大筒ハ車ニ乗て引かせ尤五挺

ほら貝鉦太鼓等を打立陣列を定メ備へを立(三陣ニ立る)

出火見舞ニ来り候もの共を一々に白刃を差つけ此度

 

4頁 原 画 

我等窮民を救ひの為大事を思ひ立候汝等も加勢致

へし若違背ニ及び候得ハ切害いたすへし抔とおと

し候故其勢ひニ恐れ無拠加勢随身の者夥敷相成

其者共に抜身之刀等をもたせ或ハ車を曳かせ鳶口

をもたせなといたし先一番ニ朝岡助之丞之屋敷

の東手土塀を切崩し大筒を打込焼立申候  

  因ニ右朝岡氏ハ(東組与力)御奉行御巡見之節御案内之家  

  柄にて前書の通当十九日西御奉行堀伊賀守殿与力  

  同心町巡見之定日と相定り昼飯ニハ東西御奉行共  

  朝岡屋敷にて遊し候由平八郎兼て其折を伺ひ
   
  

  西御奉行共失ひ申存心之處前夜訴人有て露顕  

  におよひ無是非今朝事を発候由風聞ス

扨朝岡屋敷を焼立次に工藤西田何れも大筒を打

込放火し夫より東へ押行川崎与力町一軒も不残

焼立猶逆威ニほこり恐多くも川崎 御宮江も大

筒をうち込焼立纉々天満橋筋の町家へも打込不

残放火し西与力町北同心町迄皆々大筒を以焼立

東寺町より十町目筋江出勿体なくも天満宮へも

大筒打込焼立天神橋北詰め江押行候所早橋を切落し

 

5頁 原 画

候故渡る事不叶又南詰ニハ御公儀方御役人中厳

重に守護なり西筋と浜をこゝろさし行々放火し

難波橋を南へ押渡り今橋通鴻池善右衛門宅江大

筒を打込是も蔵々の戸前を開き火箭打込候事

ゆへ大勢次第に燃上り庄兵衛宅ハ不及申土蔵壱ケ所

も不残焼失す夫より二手にわかれ一手ハ今橋通を東

一手ハ高麗橋通を東江押行三ツ井呉服店岩城呉服

店 恵比須屋呉服店平野屋五兵衛宅何れも土蔵へ

大筒をうち込焼立る  

   但し平野屋五兵衛宅は凶変を早く告しらせ候者  

 

   有之土蔵はしめ目塗をいたせし事ゆへ壱ケ所も土  

   蔵焼失せす元来平五は平日ゐんとくある家ゆへ  

   ケ様之大変を早く告る者ありて土蔵を焼れさる  

   ハ積善之家にて必ず余慶ありとの古語のことし  

   と皆人称しあへり

扨悪徒ものハ高麗橋を東江渡り南へ行内平野町

米屋平右衛門 同長兵衛宅をも大筒を打込此時大

道ニ而東江向て大筒を放し候 是ハ東より役人来る

と告しもの有し故 なり次ニ大手筋住友甚次郎

宅まて放火し夫より思案橋を西へ渡り談路町

 

6頁 原 画

通を西江焼立候折節南風強く吹出し火勢す

さましく燃上り市中の老若男女途を失ひ放火

せられし家々ハ金銀家財を取のける暇もなく

着のミ着のまゝにて老たるを扶け幼きを抱き女童

ハ素足にて泣叫ひ迯さまひてハ親を見失ひ

子をはくらかし周章狼狽する有様目もあてられ

す遠き町々安治川の末まてを今もや世界大乱ニ及

ふへしと家財を持運ひ妻子を他所の知音或は

寺院なしへ落しやる其騒動大坂中かなへの沸

か如し勿論常の出火と事替り知音縁類の者と

 

ても銘々迯仕度のミ出火の手伝に来る者一人もな

けれ鉄炮の流玉にあたり疵をかふむり命を落す者

も少からず哀といふも疎なり斯て悪徒ハ段々

西江横行し談路町通堺筋辺追行候處東御奉行

跡部山城守殿御馬印見え候故悪徒より鉄炮数十挺

はけしく放したり御奉行方よりも同じく鉄炮

を妨し其音俄ニ夥しく此時玉造口江御加番遠藤但 

馬守殿組与力坂出弦之助と云人(年二十四五才)衆に抽て先に進ミ

紙荷物之陰より鉄炮ニ而悪徒の大筒方の浪人体之者(桜田源右衛門

なり後ニ知る)をねらひ候處大塩方より一人の男(名苗字しれず)固く鉄炮

                                            

7頁 原 画

をかまへ坂本をねらひけり坂本氏は一心に大筒方の者

に目を付候故是をしらす遙後より坂本氏油断候ゆへ

悪徒方より筒口さしむけ候そとよハわり候へとも両方の

物音に紛れ坂本氏の耳に不入猶も大筒方の者をねら

ひ居けり其時悪徒火蓋を切て放せしに坂本氏の幸運

にや其玉着たる陣笠をかすりつゝ後へそれたり其侭に

弦之助火蓋を切て放せしに過す大筒方の胸板をうち

ぬきけり是に依て悪徒のもの共驚き騒ぎ鉄炮武器

を投捨一同ニ散候を坂本弦之助並山城守殿家来松浦竹

次郎と申仁と両人先ニ進て刀にてまつ大筒の者を二刀

 

さし猶も力を閃し追散し松浦氏も悪徒の頭立者(名しれず

角力也)壱人切倒し候ニ付敵ハますます狼狽迯散候遠藤但馬守

との組与力石川彦兵衛と申仁も衆ニ先立て悪徒を追払ハれ

し斯て公儀方の銘々ハ悪徒の捨たる大筒(但し木也)並ニ車鉄炮

槍刀等多く分取し中にも彼切倒されし者の首を切

鎗の先につらぬき方々持行悪徒の頭立候者を討取候

間安堵可致旨被仰急々火を防ぎ候へと呼わり候故諸人

少し心を安し候是より大筒鉄炮を打候ものとも一人もな

く常体之火事ニ相成火消人足の者共追々掛付精々消防

候へ共風増々はけしく天満舟場上町三所の火の手

 

8頁 原 画

強く中々人力にハ防かたく相見へ候也船場ハ南安土町西は

中橋北ハ大川東ハ東横堀上町ハ南本町ハ南ハ本町北ハ大川西ハ東

堀東ハ御奉行御役所西隣代官屋敷まて御役所ハ東

西とも無別条牢屋敷ハ焼失す扨天満ハ北ハ女夫池にしハ

森町東ハ川崎南ハ大川まて不残焼失ス十九日辰の上刻

より焼出し廿一日暁方に漸々鎮火申候誠ニ大坂御陣以来

の凶大変に焼失し金銀珍宝幾億万両共かそへかたし

悪徒の者共掠取金銀もまた夥し歎てもなおまりあ

る大騒動なり

  右大変ニ付かけ付之大名衆にハ
 
  

  泉州岸和田城主

    岡部美濃守殿  八百余人

  和州郡山城主

    松平甲斐守殿  七百余人

  攝州尼ケ崎城主

    松平遠江守殿  八百余人  

  日佐田陣屋

    永井肥前守殿  三百余人

右何れも美々敷大手口京橋口ニ陣を構へられ候

 因ニ曰攝州高槻城主も十九日ニ軍粧して御出馬あり

 

9頁 原 画

   けれ共御城代土井大炊頭殿より早使を以御差止ニ相成候

  是ニ仍て途中ニ備へを立られ候是ハ悪徒所持之鉄炮

  之中ニ高槻公之印有鉄炮有之候ニ依る御疑ひ之趣を以御 

   差止と風聞す   

   御城中守  ニ者当時御城代

       土井大炊頭殿   七百余人

  其外西東御奉行ハ諸蔵屋敷より掛附備へを立られ

   候あれも廿一日之未ノ上刻ニ各御引取ニ相成申候

扨火鎮り候而後悪徒之行衛厳敷御吟味有之候得共大塩

父子初メ一味之者とも一円行衛相知れす東之御堂之

 

水道より鉄炮一挺引上ケた四ツ橋辺の川より刀四五腰引

上又死骸一ツ引上る

 但し此死骸ハ悪徒の中にハ不有由風聞ス

其余焼場之井戸よりも鉄炮刀兜金銀檄文も引上ケ候由

扨無難之町家ハ夫々私宅江立帰り候得ともまた悪徒之起り

候事も有之哉与危踏家財を納メたる蔵戸前を開かす候

故業体も相休ミ十九日より廿三日頃迄ハ表を〆切見合セ居候

處追々 御公儀様より御触渡有之候故漸々廿三日比より

店を開き業体相初申候扨類焼之難渋人の分ハ

御公儀様より格別之御仁恵之御触有之道頓堀芝居江罷 

 

10頁 原 画

越候へとの御事故我も我もと芝居江参り候處則御役人衆より

御痛り有之親椀ニ堅く詰たる大握飯を壱人前一ツ宛勿論

日三度つゝ被下候此御救米入高一日ニ十石余と云斯て三月

上旬ニ相成候御救小屋成就いたし候ニ付類焼難渋人夫々に

行移候旨被仰渡候則處ハ

  北組ハ天満橋南詰   天満組ハ天満橋北詰

    南組ハ天王寺御蔵跡

右何れも組々の小屋ニ御救之印幟を立られ候小家住之

者ハ御救飯を頂戴ス銘々朝より挊ニ出手元銭たまり候

迄御養ひ被下候との仰渡されにて候誠ニ莫大之御慈悲也

 

右手元残挊ニきため小屋を出借宅江引移り候者江ハ白

米一斗ト銭弐貫文宛被下候又病人之分ハ近辺之明家

に而保養を加へさせ医師御附配剤させられ候且又

御公儀より有福之町人中へ施行銭差出し可申旨御下

知有之依而思々に差出候鳥目惣高二万三百五拾貫文なり

此銭相場九匁替ニ而銀高二百四拾貫九百弐拾五匁なり右

銭を此度之類焼人壱軒前壱貫文宛被下類焼せさる者迚

別ニ四百文ツゝ被下候其後又 御公儀様より

御救米として現米二千石(尤白米也)三郷借家人共江御施行有

之候壱軒分弐升八合究也元来昨年米不作ニ付当年ニ至

 


盬平勢衰記 2 大塩平八郎乱妨 之一件 翻刻版

2017-04-07 00:35:15 | 大塩平八郎

11頁 原 画

米価追々高直ニ相成市中難渋云斗なく折々米屋を

こほちなと致し候事も有之酒ハ三分一造被仰渡壱升

之価並酒ニ而三百文如斯諸色高直なれハ困窮の者ハ

ニ落ふれ路頭に餓死する者又数をしらす大凶之上大塩父子

之乱妨ニ而世上益困窮し米価俄ニ高く相成一石ニ付

(白米壱升二百七拾文)誠ニ貧乏人朝夕の煙立かるれニ至る事大塩奸賊の

所行故と慣らさる者ハなし

 籏之図

   東照大権現

  天照皇太神宮
 木造大筒の図
   春日太明神
  但シ火口ウシロニ アリ
  

 南無妙法蓮華経

 

    湯武両聖王
此所江棒火矢
  天照皇太神宮
サシコム    八幡大菩薩

 

12頁 原 画

救民                      先手の印幟
鉄大筒全図車ニ載用ユ
筒長サ四尺余台モ五尺余ニ見ユ
此外七十目筒銀象車輪ノ紋
小筒品々 長刀 刀 火貝等アリ

大筒玉薬入
木筒ノ図
火矢 胴 竹中 木蓋 木惣長サ壱尺余リ木綿ニ而五重巻ク
以下略します。

 

13頁 原 画

行列附之次第先手之分

桐紋籏(鎗人足同同)庄司儀左衛門 拾五匁筒      人足三人

救民幟 木大筒人足大塩格之助金助 拾目筒

文字籏 (鎗人足同同)   大井庄二良 拾目筒      人足三人


同中陣備之分
鎗 白井孝右衛門        同 深尾治平
同 茨田郡次            同 志村周次
同 杦山三平            同 上田孝次良         鎗 阿部長助
                                               同 蘇我岩蔵
  大塩平八郎                                  同 同 忠五郎
                                               同 西村利三郎
鎗 橋本忠兵衛          同 高橋九右衛門        同 同 喜八
同 梶岡源右衛門        同 堀井儀右衛門         同 吉助
同  同伝七              同 安井図書

 

14頁 原 画 

後備之列


鎗 渡辺良左右衛門   
            小筒拾挺

                                        具足
瀬田済之助              大筒人足三人  長持   人足百三拾人斗
                                        葛籠
                        小筒拾挺

 


右悪徒之者其日の出立ハ大塩初メ重立候ものハ甲冑を

帯し或ハ小道具或ハ面を包ミ加勢之ものハ陣笠後鉢巻

等ニて何れも抜身の鎗刀木刀竹槍を持もあり小筒を

かまへ大筒に引添陣立致し候

大筒ハ木以造る図之如く木の中を彫抜筒ニ竹の輪を

入候物なり小筒と申ハ常体の鉄炮なり木筒と申ハ尼ケ崎

高槻ニて火術ニ用ひ候打上の同様の筒なり外に棒火

箭又鉄造の大筒も有之候よし前の図の如し

  檄文之写   落し文なり

 

15頁 原 画

四海困窮いたし只々 天録永く絶へ小人に国家を治めし

めは災害並至ると昔の聖人深く天下後世の人の君人

の臣たる者を御誡被置候故東照神君にも鰥寡孤独

に於て尤憐ミ加ふへきハ是仁政之基と被仰置候然

るに此二百五十年太平之間ニ追々上たる人々驕奢とて

おこりを極メ大切の政事ニ携り候役人共も賄賂を

公に授受とて贈貰いたし奥向女中の内縁をもつて

道徳仁義等もなき拙き身分ニ而立身し重き役柄

に経上り一人一家を起し候上のミに智術を運し其領分

知行所の百姓共江過分之用金等申付是迄より年貢諸

 

役に甚敷苦しむ上江右之通無体之儀を申渡し追々入用

かさみ候故四海之困窮と相成候故人々上を怨ミさる者

なきやうに成行候得共江戸表より諸国一統右之風義に落

入 天子ハ足利已来別而御隠居同様ニ而賞罰之柄を御

失ひニ付下民の怨気天ニ適し地震火災山も崩れ水も

漫るよう外ニ色々様々の天災流行し終に五穀飢饉に相

成候ハ皆天より深く御誡之難有御告ニ候得は一向上たる人

々心をも附す猶小人奸智之輩大切之政を執行ひ只

下を悩し金米を取立る手段斗ニ打かかり実以小前之

百姓共の難義を我等如者の草の陰より常に察し

 

16頁 原 画

怨ミ候得とも湯王武王勢位なく孔子孟子の道徳も

なけれハ徒蟄居致し候處此節米価いよいよ高直ニ

相成大坂奉行並役人共萬物一体の仁を忘れ得手勝

手之政道を以いたし江戸江廻米いたし天子御在所の

京都江ハ廻米之世話等も不致のみならす五升一斗

位の米を買ニ下り候者共を召捕なといたし実に昔葛

伯といふ大名其農人の弁当を持運ひ候小児を殺し

候も同様言語道断何れも人民ハ徳川家御支配之者ニ

相違なきを隔を付候ハ全奉行等の不仁にて其うへ

勝手我儘之触書等を度々差出し大坂市中遊民

 

斗を大切ニ心得候者前ニも申通り道徳仁義を存せさる拙

き身故ニ而甚以あつかましく不届之至且三都之内大坂之

金持とも年来諸大名江貸附候利徳之金銀扶持米等

を莫大ニかすめ取未曾有之有徳ニ暮し町人の身を以

大名之家老用人格ニ取用られまたハ自己之田畑等を

夥敷所持いたし何ニ不足なく暮し此節の天災天罰

を見なから恐も不致餓死之貧仁乞食をも敢而不救其

身は膏粱之味とて結構之物を喰ひ妾宅等へ入込

或ハ揚屋茶屋江大名之家来を誘ひ参り高価之酒を

湯水の如く麁抹ニいたし此難義の時節に絹服を

 

17頁 原 画

まとひ候河原ものを妓女と共に迎えへ平生同様ニ遊楽に

耽り候ハ何等の事武紂王長夜の酒宴も同し事

其所の奉行諸役人手に握り居候政を以右の者共を

取しめ下民を救ひ候義も難出来日々堂嶋の米相

場をいちり廻し実に禄盗ニ而決而天道聖人の御心に

叶ひかたく候救なき事蟄居の我等最早堪忍難成

湯武行勢ひ孔孟の徳はなけれとも無拠天下の

為と存し血族の災を犯し此處有志之者と申合

下民を悩し苦しめ候諸役人を先誅伐いたし引続奢

ニ長し居候大坂市中之金持之町人共を誅戮に及ひ

 

可申候間右之者とも穴蔵ニ貯置候金銀銭並諸蔵屋鋪

之内隠し置候俵米等夫々に配当いたし遣し候間

攝河泉播之内田畠所持不致者たとひ所持いたし

候共父母妻子家内之養方出来かたく程之難渋之者

とも右着金米とらせ遣し候間何にても大坂市中騒動

起り候と聞伝へ候ハゞ里数をいとはす一刻も早く大坂江

向可駈参候其面々江右米銭を分遣し可申候鈴橋鹿台

之金粟を下民江被与候遺意とて当時飢饉難儀を相

救ひ遣し度若又其内器量才力有之者ハ夫々取立無道

之者を征伐いたす軍役ニも遣ひ可申候必一揆蜂起之企

 

18頁 原 画

とは違ひ追々年貢諸役等ニ至るまて軽く致し都て

中興神武帝之御政道之通寛仁大度之取扱ニいたし

遣し年来驕奢淫逸之風俗を一統相改質素ニ立戻り

四海萬民何れも天恩を難有存し父母妻子をすくひ死

後の極楽成仏を眼前ニ見せ遣し堯舜天照太神

之時代ニ而復ししかたくとも中興の気縁ニ快復とて立戻り

可申候此書附村々江一々しらせ度候へとも数多事故最寄

之人家多候大村之神殿江張付置候間大坂より廻し

物之番人より見付大坂四ヶ所之奸人共江注進いたし候

様子ニ候ハゝ遠慮なく銘々申合番人を不残打殺し可申候

 

若騒動を承りなから疑惑致し駈参不申またハ及遅参

候ハゝ金持之米金皆火中之灰に相成天下之宝をとり

失ひ可申候間跡にて必我等を恨み寶を捨ね無道もの

と蔭言不致様可致候為其一同ニ触しらせ候尤是まて地

頭村方ニ有年貢等にかゝりし諸記録帳類はすへて引

破り焼捨可申候是往々深き慮有事ニて人民を困窮

致させ申間敷積り候乍去此度之一挙当期平将門明智

光秀漢土之劉膳朱忠等之謀反之類ニ無之又我等心中

天下国家を貪盗致し候慾より起り候事ニは更に

無之日月星辰の神讃ニある事ニ而詰る處ハ湯武漢

 

19頁 原 画

高祖明之太祖明を吊ひ君を誅し天罰を執行候誠以のミに

而候君疑敷覚候ハゝ我等所之終る處を汲等銘々開て見よ

  此書附小前之もの江ハ道端坊主或ハ医師等より尋よ

    よミ聞せ可申候若庄屋年寄眼前之灾を恐れ己ニ隠し

    候ハゝ追而急度其罰課行候

奉天命致天誅候

  天保八丁酉年月日

    攝河泉播村々

     庄屋年寄百姓並小前百姓共江

    右黄色之結ニ袋ニ入上書に

   

  天より被下候村々小前之者ニ至る迄

右之落し文読路町増筋辺にて悪徒離散之後諸

武器と共ニ井戸より取上候を写し取候なり尤本書に

よミかたき字多あり大体推量之上写し取候事故

誤字脱文も有之へきか

        因みに曰天保七丙申年九月上旬ニ高麗橋三町目

        横町ニ夜中ニ張紙有之候故番人之者見附

        町中立会之上まくり取 御公儀江訴出候何者之

        所為共相分不申大塩乱妨之後思ひ合し候へ者

        是も悪徒之所為か成やと諸人風聞す仍而其

 

20頁 原 画

        文を茲に写ス

近年引続候而天災地変五穀不熟にて諸民必死難渋致困

窮絶体絶命ニ至り全江戸之政道不正にて偏頗私曲

之沙汰ニ相成公儀と称し候儀迚更ニ無之此通ニ而ハ不達

天下之万民なく残所致餓死候ニ付此度天道様より政

事命令被為有候其訳候豊臣秀頼父秀吉之志を

継諸大名を師ひ海内を治る事不能を察し其暗弱ニ

乗し源家康太閤秀吉年項之恩義を不省ひそかに

隠謀を構へ豊臣之天下を奪ひ四海之政務を司り天下

之権柄を握り上ハ安撫せるニより代々将軍と相成候處

 

近代ニ至り江戸之気運追々おとろへ当時は人臣の極官ニ

登り官禄ニ盛成ニより威光日々ニ増長し人道の大乱を

廃し又下民之疑をいとハず栄中之奢強く諸民を芥の

如く軽んし手侭ニ成候小身者ハ厳科ニ處し少し手侭

に致し難は三逆の大罪も刑を軽くし且将軍之一

族金枝玉葉  迚も三卿之衆ハ国家之政務ニ不携然

るに高官を汚し剰大身ニして武功之家柄之大

名ニ者前々より松平の称号あたへ格別之国主

夫々日陰之身ニ而私之通行ニも目障と申而天下之大

名表向通行之駅場ニ相建候関札を理不尽ニその


盬平勢衰記 3 大塩平八郎乱妨 之一件 翻刻版

2017-04-07 00:34:32 | 大塩平八郎

21頁 原 画

囲を蹂倒し殊更帝王より賜り候官名並ニ称号相

記し候関札を土足に懸り次第不法之至り言語道断

無拠罪科相糺ニ至るハ主君を大切に存候而之始末抔与

となへ如何と軽輩之者迚も一命に於ハ同敷事なるを然るニ

供方之者の罪ニ皈し大罪に行ひ尚又大国を領し国主

と祝し候大名も先祖以来称し来り候家之称号乍

有士之数ニも不入軽輩之土足ニ迄懸汚せし称号を

指戻しも不得致同列之国主迄も一言も不申出とハよ

くもよくも腰を抜し候事ニ而日本国之勇気斯まてニ

衰へ候ハ残念之至浅間敷次第ニ付此度天道様より

 

新ニ天命罷下り天下の諸民武士ハ不及申百姓町人沙門

之身ニ而も天道様江の奉公と存し急々ニ大儀を可思立候

尚又天道様之御目鏡を以て智勇兼備之者を撰

出し大将ニ可被成候右之趣改革之天命ニ付京大坂初

諸国津々浦々迄可触知者也

申九月

提紙ニ而

来ル十月朔日之夜中より左之處江腰弁当ニ而可被

集候但シ老人ハ東西本願寺堂江可集候

  集会評議所

 

22頁 原 画

西ハ天保山東ハうふ湯稲荷

  此事附遠目を付置候故誰ニ而も取のけ候方へさし

  火被致候

天保八酉二月十九日暁七ッ時前東組同心之内吉見九良

右衛門より倅莫太郎並河合善太夫孫八十治郎両人

を以西御奉行御役所へ差出し候内訴之写

 乍恐

公儀御一大事之義奉意訴候

                            東組同心

                                吉見九郎右衛門

 

近来転変地変打続民心不安ニ付私晩学之師与相頼候東組

与力大塩格之助父隠居ニ而儒業に罷有候大塩平八郎儀

倅格之助丁打稽古其外之事ニ託し旧冬より火薬

之拵致し居候處実は世を憂ひ候心堪難ニ付孔孟之

徳もなく湯武勢位無之候得とも民を吊ひ候大義を

唱可申と恐多くも不顧

公儀奉警五道ニ帰し候様致し度旨門人之内同組与

力瀬田済之助小泉渕次郎同心之内渡辺良左衛門河合

郷右衛門近藤梶五郎平山助次郎庄司儀左衞門私共

に河内守口村質屋白井幸右衛門同州般若寺村橋本

 

23頁 原 画

忠兵衛等江追々同者ニ申勧候引付私ハ勿論誰迚も驚き

実々恐怖不致者無之趣元来平八郎気分高く剛

偒勝ハ生質ニ付平生門人之教厳敷長幼之無差別

折々大技等を度々以其一念之不正を懲戒候ニ付要を改

善ニ遷候様相成師弟之交り誠実を尽し候ニ付皆思

ニ感じ恭敬厚く致し候故申聞候も了簡ニ違ひ候義

有之候而も言之論談致し候者も素より右密談請候

者共学術未熟無術之者ニ而私義ハ猶更以弁へそ道を不知

候ニ付答方無之誠ニ大胆成致附と怖敷候處漢高祖

明太祖等三功業なとを解得為致候故実以不同意勿論

 

左様之義仮令学力有之候共隠退之与力ニ而出来可申様

無之義ニ付其場を錺り尤之様之言葉を合し申答其

余之者共も大体同意ニ相聞候処全ク人を掛候為之虚

言ニも無之火薬分外ニ拵へ弥密談ニ力を入候ニ付猶々

恐怖之念弥増長方畏縮いたし候者ハ身分を賤しめ

悪言大技等を度々以打擲右ニ付外をも懲誡強制致ニ候ニ付

弥一言半句も不被申様ニ相成皆々嘆息いたし候得

とも致方無之無拠付合致労心候義ニ御座候尤民を

吊ひ候義ハ拒橋鹿台之粟を民ニ与られし遺意

ニ候迚大坂市中豪家之町人共利倍を以貯居候金銀

 

24頁 原 画

銭並ニ大名方屋敷有米を与候間何時市中ニ出火

と承り候ハゞ貧民駆付可申右金米配当致し可遣旨檄文を

作り摂河泉播江相廻し候積遺言ニ違ひ候義も難斗

何とも歎ケ敷次第ニ而私身ハ賤き御奉公致候得とも先

祖より恐多くも君上之御恩沢を以て父母妻子を育何

不足なく相勤候段誠ニ以冥加至極難有仕合奉存候

ニ付右体之企実心決而同意不仕無勿体義ニ付何卒相

避申度存不快差支ニ托し成丈平八郎方不罷越様致

術迎年遇寒邪之上宿疾発し勤労後出勤も難

仕併し都而幸々相成旁以病気養生引込之御届

 

申上候ニ付不携様相成候得とも何卒右企為相止度

良左衛門並ニ其余之者江諌方之義度々及内談候処


何れも尤与同意ニ候得とも中々一朝一夕之事ニ而ハ

難参良左衛門郷左衛門等より風諌致し候得とも止る気

色も無之却而憤り口を閉候ニ付此上者誠意を尽し

自分与心付相止候様致度与良左衛門申聞其余之者

共風諌時も出来不申既郷左衛門義ハ避候心得候哉不斗

家出致し候旨を申様子相構候得共頓着不致趣ニ付

尚又良左衛門江面会之上私義兼而多病之義ハ平八郎

事存罷在候義其上当時病症労症之上疝痛一

 

25頁 原 画

時ニ相発し心労弥増候ニ付中々以密談之一條難出来

候間自殺を以相断候外無之旨追而及■談之所色々

申宥左候者外ニ申談取斗方不有候哉折角相察

居候段申聞候義ニ而右之趣平八郎及承候ハゞ心付相止

候儀ニも至可申哉と存居候處一両日相立良左衛門罷越

平八郎江私病中ニ付右一条過急に発立候積候ハゞ迚も難

出来申聞候處尤之儀左候ハゞ緩々保養専一之旨申居候

間其心得を以事発着之節ニ立退可申旨良左衛門申

聞候へとも実は如何之示合ニ候哉同人義ハ難遁義有之

故哉猶私病気寛養之儀見舞旁格之助并儀左衛門

 

等を以て申越候全く私差向違変之儀有之候而者御不審

ニ而一儀露顕を危踏候故の儀与相察候将又平八郎義ハ

聊無私心を以て人勧め又檄文を廻し且所持之書籍

等を以て施行の義も民心寄伏之義与相察申候以前

の有間敷悴江可娶積之養娘を竊ニ自分妾ニ致し

男子出産ニ付殊之外相歓此上ニ而弥一儀決心之旨相咄シ

■間敷与申聞候俗人にも相劣候義不埓之義且後来

之望有之義顕然ニ而最初より反謀之企を以人を勧

め候ハゞ承知不仕義を存し無欲天道を以事を謀候義

名前立愚昧之者共をたふらかし同者ニ入檄文中

 

26頁 原 画

殊ニ明白ニ認識有之実ニ天下御為を存候ハゝ如何様

共自力之及び候き御忠節之奉尽方も可有御座哉

誠ニ以言語道断奉恐入候次第ニ而私義病気を以相避

候得とも斯御一大事之儀不奉言上候ハゝ 御高恩

何を以奉報之候哉且不届之罪難遁候ニ付此段奉内訴

訴右ニ付第一奉申上訴ハ 御城並両御役所其外組屋敷

等火攻謀ニ付右ニ乗し市中人家江火を懸可申左候

ハゝ乱妨ニ而数万人之命ニ拘り候義与相成兼而御武備も

御座候得とも火急ニ事起り候義も難斗時を考候間

中々御油断難相成 御危難之時節ニ御座候間乍

 

恐密々急速ニ御手当之上御取鎮之御深慮奉願上候故

之趣意ニ奉言上度昼夜心を労しめ罷有候へとも病悩

難堪一向執筆不相斗山城守様江可申言次可申談者無

御座候ニ付色々配痛士無拠渇所見斗託訴を以遅々

ニ及ひ候得共奉言上候間其段御赦免可被下候尤平八郎

義大体火術之不一通候御深慮被思召候様奉仰候其

余前書名前者是非御召捕ニ相成候ハゝ私義も同様御取

斗可被下候無左候而者私より密訴之義相相知訴てハ全く

卑怯ニ而一旦之義理忍候様ニ相当り候も口惜敷何れ

死ハ決着仕罷在候得共私相果候ハゝ御不審之内火急事

 

27頁 原 画

発覚可仕候左候時ハ大乱ニ相成急訴も空敷次第ニ付

御召捕迄ニ■ニ■之自滅可仕も難斗御座候間右寸志を

以て御赦免可被下候様奉願上候病躰も六ケ敷候ニ付

万一御憐愍被下何ニ御留置又ハ御預り相成候共忽ち

落命ニ至り可申義必定之儀ニ付此段御憐察之上御

許容被成下候様奉願上候将又至而若年之倅莫太郎

与申者学問為修行先達而より平八郎方江寄宿為

致置候処全く人質之積ニ候哉差帰不申仕義ニ忰

之存亡ニ掛り候得共御一大事ニ者難換万々一落命も

不仕候ハゞ其余血族之者とも一同御仁憐之程奉願上

 

候何卒右密訴之義ハ暫時御内含外より達御聞

之様被成下後々之御裁判奉願上候

 但西御組与力見習勤内山彦次郎ハ兼而大塩平八郎心ニ

 合不申由ニ候處彦次郎義此度遠方江御用ニ

  参り候哉ニ沙汰も承り候間遁れ不申候而手始ニ被

 掛候義も難斗候間出立御差延し御賢慮被

 思召候様奉仰候

     天保八酉年二月 吉見九郎右衛門

 

28頁 原 画

御城代樣

御定番樣

両御頭樣

東西御奉行所より御城代江御書上之写

 

去ル十九日奸賊共市中乱妨之儀奉申上候

 

二月十七日夜山城守組同心平山助次郎山城守手元江

罷越密々申聞候者同組与力大塩格之助父隠居平

八郎義同組同心吉見九郞右衛門渡辺良左衛門遠藤梶

五郎庄司儀左衛門先達而出奔仕候元組同心河合郷

左衛門右助次郎申合大胆成儀を企棒火矢其外

吉見用意致し置近在百姓共人数不相知申合去ル十

九日市中其外焼払可申旨不容易悪斗仕右之

者とも百姓共連判仕候處只今ニ至り何共恐入候次第

ト相心得候段助次郎申聞候間虚実之程難斗内聞

 

29頁 原 画

申付十八日御用日立会之節伊賀守江右之始末申聞

及相談候右企相違無之哉相聞候間両組相交早速捕

方相響可申候も難斗伊賀守御用日立会相仕舞

次第帰宅後右捕方之義山城守ニ者組与力茨野勘

左衛門申聞候者未虚実も旋之不相分殊ニ火器等用

意之儀ニ付容易ニ捕方難差向穏便之捕方ニ致度申

聞候間伊賀守江其段申談し山城守万ニ而種々評

儀之處翌十九日暁七ツ時前堂組同心九郞右衛門倅

莫太郎郷左衛門倅八十治郎右九郞右衛門兼而認メ

置候書附並判摺之紙面相添伊賀守御役宅江

 

同様之趣申置ニ付早速山城守江家来を以内

密申越候處此上者一時難捨置打合せ置候通

捕方早速差出申手配工合仕候處然ルニ右連判

之者之内瀬田済之助小泉渕次郎泊り番ニ而山

城守御役宅当番所ニ罷在候間同人ニ一通り相

尋候処一事ニ露顕与相心得候哉両人共迯出し候

間淵次郎者打果し済之助ハ塀を乗越迯去申

候右之次第ニ而伊賀守早速御役所江相越候様

申遣し候則罷越候其已然平八郎ニ切腹為致

候儀不承知ニ候ハゞ差違候様同人伯父同組与力大西

 

30頁 原 画

与五郎江山城守より申付候処途中より不快ニ而不罷

越迯去候済之助より告しらセ候哉天満辺大筒小筒相

候音相聞へ夫より組屋敷焼立廻り候ニ付近辺殊之

外騒立追々天満辺江鉄炮打掛何れも白刃携候

者多人数罷在最早穏便之取斗仕兼候ニ付両組与

力同心とも被申付御鉄炮組同心打交鉄炮を以可相

払旨差図仕候得とも手たり兼候間遠藤但馬守

江掛合御定番与力同心呼集種々手当仕候内弥以

及増長候ニ付御手前様御人数をも御加江相成天満

橋向西之方江焼立船場辺相廻り候ニ付米倉丹

 

後守組其外召連伊賀守義罷越候處内平野町

辺ニ徒党之者凡四百人斗相見へ候ニ付打払候處

早速東堀川向之方江迯去尤場所火勢強燃

立申候山城守義も玉造口与力同心其外召連

引続同様ニ罷在候内骨屋町ニ而面会申合両手ニ

相分同人義思案橋相渡り船場辺談路町

江相向ひ道筋見掛次第ニ相払可申候處堺筋

辻合ニ而山城守馬印目当ニ励敷鉄炮打掛候

間此方よりも一同ニ打払候但馬守組与力板本

弦之助場合近く相進ミ大筒支配仕居候名前不

 


盬平勢衰記 4 大塩平八郎乱妨 之一件 翻刻版

2017-04-07 00:33:49 | 大塩平八郎

31頁 原 画

知浪人体之者を打留其外雑人打留乱散

仕候間場所ニ捨置候大筒其外武器類相調別

紙之通取上申候伊賀守義前書申上候通骨屋町

より本町橋相渡り進ミ行候處難波橋筋ニ而

奸賊共罷在候間但馬守組与力石川彦兵衛先き

立雑人相払路筋ニ捨置候鎗長刀等取上追行

候處堺筋ニ而山城守ニ出会猶申合火中奸賊共

行衛深く相尋候得とも一円相見へ不申依て所々

に相囲御手前御人数江ハ引取御城辺相囲居候

様山城守差図仕候京橋辺江夫々警固人数差

 

配仕候伊賀守義ハ東横堀川筋本町筋相囲夫々

人数差配両人申合市中人気相鎮り申候様取斗

召捕方専要之手配申付直様消除差図ニ取掛

候得共右之騒動ニ而人足相集り兼追々呼集消

除仕候處残賊近辺ニ相見へ候旨風聞有之市中

不穏候ニ付為取鎮旁私共所々見廻り等仕翌廿日

同様之沙汰仕候間不穏候ニ付夫ニ付夫々人数当仕無

油断消除仕候得とも牢屋敷焼失仕再ひ火焼

募り候得共御城内無別条両御役所も別条

無之同夜五ツ半時比御弓町ニ而火鎮り申候類焼

 

32頁 原 画

之者共江御救米等被下手当仕ニ付此節之趣ニ而

市中人気追々打合最早諸人掛念仕候模様

無御座候右前書之通坂本弦之助砲術鍛錬之

上格別励敷働仕候石川彦兵衛も認出か程ニ打

留ハ無之候得共励敷働き仕場所を先達仕候其外

何れも非常之働仕候義追而取調可申上候得共

但馬守考者何れも平日之心掛宜敷相見へ申候

巨細之儀者猶追々取調可申上奉存候 已上

         東西御奉行

 二月廿二日        連名

一 町数         百拾二町

      外ニ東堀川上之口新築地天満天神社地同東

   寺町前大鏡寺前同東寺町

一 攝州西成郡川崎村

一 惣家数                三千六百拾九軒

      竈数壱万二千五百七拾八

      内明家千三百六軒

 

33頁 原 画

土蔵          4百拾壱ケ所

穴蔵          百三ケ所

納屋          二百三拾ケ所

一 寺数          十四ケ寺

一 道場          二拾三ケ所

一 天満御堂東本願寺掛所

一 神社          三ケ所

  但シ神主社家屋敷十ケ所

一 武家屋敷       二ケ所

 

一 蔵屋敷        五ケ所

一 用場          二ケ所

一 牢屋敷

一 橋天神橋 高麗橋 今橋 藤屋橋 平野橋   五ケ所

一 銀座秤座天満組惣会所

一 東組与力      二拾九軒

一 同同心居宅     四拾六軒

一 西組与力           二拾九軒

一 同同心居宅     二拾六軒

一 与力同心武芸稽古場    三ケ所

 

34頁 原 画

一 鈴木栄助居宅御彼様奉行也

一 池田岩之烝御役宅代官也

   三所焼地図

 

右騒動一件江戸面江御注進相聞江営中ニ而

御評儀之上丹州亀山候播州姫路候両家江加勢

可有旨御下知有之依而各二月廿六日頃陣立ニ而

出張有之

  播州姫路城主

    酒井家御人数千五百人

      先手西宮二陣ハ兵庫三陣ハ明石迄

 丹州亀山城主

   亀山家御人数六百人

      十三川比辺迄御出陣

 

35頁 原 画

右御出張有之候得共最早騒動鎮り候故即御城代

より御差止之使者を以御申遣し各途中より御引

取ニ相成候両家共軍粧美々敷諸人の目を驚ス

 

  大火後御触書並御口達之写

 

 一  悪党者共所持いたし候飛道具類ハ不残御取上ニ

    相成候間安心致し候様於町々不残様可被達候

       二月廿一日             南組惣年寄

 

    今日只今南組惣会所江三郷町代被召呼惣年寄中被

    仰渡候也

 

一 類焼之者家財広場途中江餅出し自身番致し

   罷在候分掛り町中申付右家財預遣し候間安心

   いたし芝居江罷越御赦受候段其場所江も相

  遣し心得置可申事

 

    月 日

 

36頁 原 画

一 去ル十九日市中及乱妨之者共大火ニ及ひ候ニ付

渡世向相休候者も有之由右ニ付米価高直ニ付時

節t柄類焼之者共別而令難渋候ニ付手寄方無之

者共道頓堀芝居江罷越候 御救米致扶助遣し候

段其節惣年寄共より為相達追々罷越候者共も

可有之候最早及鎮火右乱妨之者も追々召捕猶

類焼之町々ハ勿論市中組々之者廻り方等を申付

置候間銘々渡世向不危踏日用無差支様致売

買可申尤米之儀ハ其節之者江蔵出し等之儀申聞

置候方右売買之者者猶更無違失相心得此段早

 

々不残様可申達候事

    右之通被仰出候間不残様入念可被相触候 以上 

  二月廿一日              惣年寄

 

一 類焼難渋人江御救被下候道頓堀芝居江罷越候者

  共町々より年寄家主又ハ町銘ニ而も調印書附

  相添可差越候右類焼町江可相達候 已上

一 類焼人江為御救鳥目被下候間其段類焼町々

 

37頁 原 画

  江通達可在之候類焼町混雑中ニ付各町々

  より可相渡候尤鳥目之高之儀者追而可相達候

一 町々火元番人之義大火之後之儀ニ付猶更心を

用ひ類焼町々分番人無怠可被申付候番人

居所も及類焼候儀ニ付此間より右町々江被引

渡番之儀ハ其町々伐ちり合せ罷出無怠いた

し候様可申達候

  但し有合ヲ以掛り町より相渡候分ハ運賃御入用を被下候

右之趣類焼之外ニも為相触置相心得置可被下候事

 

       二月廿五日

一 去ル十九日放火及狼藉候者有之ニより女子供ハ別而相恐

今以危踏居候者有之哉ニ相聞へ候右惣党之内

重立候者ハ追々召捕或ハ自殺いたし候者も有之

候得ハ安心いたし諸売買ハ勿論 来三月雛祭之

儀も聊無掛念例年之通相祝取引可致候

   右之趣三郷末々迄不残様可申聞候事

    二月廿九日

 

38頁 原 画

一 今度出火ニ付天満

御宮御神輿生玉八幡社江御取退有之候處明

後五日暁丑ノ上刻還御有之候依之火之元之儀

天満郷之内堀川より東ハ為触知其余ハ右ニ付火

元別而入念候様申達可置候

   右之通三郷中可触知者也

一 去ル十九日天満川崎より及出火類焼ニ逢候者可致

難渋条材木板類其外都而諸色出火已前之直段

ニ可致売買候実々直段引合不申候ハゞ追而可申出候

 

其節可為差図候若注用ニ迷ひ候分之売方致間

敷候尤類焼ニ逢候候者追々店借又は普請等可致候

得とも身軽之者ハ夫迄之取■尚又及難渋ニ■年寄

方無之者ハ御救被遣候程之儀ニ付家持並大工手伝

職惣而普請方ニ携り候職人とも心を用ひ聊利

歎ニ不拘相応之店賃を以貸付又職人共ハ極々賃

銭ニ而相働可申候若難渋を見込手間賃等を引上ケ

貪ケ間敷儀有之候ニ於ハ夫々急度咎ニ可及候此旨

三郷中家持家主支配等へ不残様可申聞置事

     三月廿三日

 

39頁 原 画

一 去月十九日大火ニ付諸材木釘類高直ニ仕間敷並大

工日雇等之者増銀申間敷相触置候處類焼人共

令難渋自分普請方差支之由右ハ材木類問屋より

中買ニ売渡町中江買取候故直段高直ニ相成可申

大工日雇之者人数在り急候義可有之間材木類ハ

中買ニ不拘穴屋より直買可致大工木挽日雇手

伝等ハ当所之者ニ不拘他国より傭候義当年中差

免候

一 土砂船積之儀且又当年中ハ何舟ニ而も勝手次第

 

積立可申候

 右之趣三郷中江可申聞候

   酉三月

一 去月十九日大火類焼ニ及ひ年寄方無之難渋人不取

敢道頓堀芝居ニ於て御救被下候■今度天満橋

北詰南詰め天王寺御蔵跡右三ケ所江御救小家御取

立有之右芝居ニ被差置候者とも今四日より追々

右小屋へ施行之品等差出し度志有之向ハ前以御

救小屋へ罷越掛り町ニ引合之上可差出候

 

40頁 原 画

一 難渋人ニ不拘其郷打込候而差込候得ば御小家之

義ハ取扱郷々相分候間其段可相心得

天満橋南詰ハ東元堺町淀島形御小屋右北組取扱

天満橋御北詰御小家右天満組取扱

天王寺御蔵跡御小家右南組取扱

一 類焼町並掛り町相除残分町々之内毎夜二町宛

順番書附之通丁代並人足壱人ツゝ相詰可申候別

紙ニ順書相渡候

  右三郷共掛り町名前相記候得共略之

       

         酉三月

一 米価追々高直ニ付難渋之者不少趣ニ付猶又其米

二千石御救として此度被下置候難有奉存難

渋之者取調早々最寄之惣年寄共江可書出

候此上ニ而御救御手当有之候間安堵致し渡世

致し心得違無之様篤与可申渡候

     酉三月

一 此度被下候御救米二千石町々調出米次第早々

 

 

 

 

 

 

 

 

 


盬平勢衰記 5 大塩平八郎乱妨 之一件 翻刻版

2017-04-07 00:33:03 | 大塩平八郎

41頁 原 画

遣し候様被仰出候右ニ付御米掛り町江相渡候節

白米ニいたし夫々遣候積り橋賃雑費銀も被

下候間其旨相心得可被申候名前ニ取調之儀精

く相急き不残様可申出候 以上 

    三月十一日         御救掛り惣年寄

一 米相場昨今引上ケ候ニ付橋米小売屋共已前ニ買

置候米迄も元付直段ニ不拘俄ニ店売直段引上

或ハ戸を〆しめ売等いたし候者も在之趣相聞へ候

以之外不埒之儀ニ候見廻り之者差出し候ニ付此上ニも

 

右体之族於在之ハ召捕可致吟味条心得違無之

様生路之売買可致候

  右之趣三郷町中橋米屋共江不残様早々可申

  聞候已上

     酉三月

一 市中橋米屋共方ニ而米押借致し候もの有之迷

惑いたし候由相聞へ候以ノ外之事ニ候右体之もの

有之候得者口上ニ而早々奉行所江可申出候ハ勿論ニ

候得とも手遠之場所も有之候ニ付左之通町々会

 

42頁 原 画

所江口上ニ而可申出早速組之者為駈付間橋

屋ハ勿論諸商売之者共安心し渡世可致候

    南堀江三町目  上難波町  阿波町

    堂嶋船大工町  雑■場町  南瓦屋町

  右之趣三郷町中江不残様可申聞候事

    三月十五日未上刻

    乱妨之者共人相書之写

 

                            大塩平八郎

年齢四十五歳顔面細ク長ク色白ク目之張り強キ方

眉毛細ク濃キ方額開キ月代薄キ方鼻常態耳常

体其節之着用鍬形之兜黒陣羽織着ス

                         同格之助

年廿七才色黒背低キ方鼻耳常体眉毛濃ク

向歯二本折有之

                         瀬田済之助

 

43頁 原 画

年二拾五才色青ク背高肥肉目丸ク二皮なり月

代薄キ方額付鼻高ク眉毛濃キ方下り在之

                            渡辺良左衛門

年四十一才色青白背低キ方目二皮ニ而大キク出目也

月代鼻耳常体

 

                        庄司儀左衛門

年四十才色黒顔細ク耳剃有之月代常体也

右之者共当地並後領内ニ而見合次第召捕又ハ及

仕儀候ハゞ討チ捨候共不苦候間早々御領内御吟味

有之怪敷者入込候ハゞ大坂町奉行所江早々御廻達

可被下候

因ニ右者蔵屋敷中江之書附を写ス又遠国近国

ニ而札場之張紙も右ニ准スれとも其書附ニハ

 

44頁 原 画

右之者共召捕訴出候者江者為褒美銀百枚可遣

尤人違ニ而も不苦候

前書之通大火後度々  御仁恵之御触書御廻ニ付

市中在々迄安心いたし業体を相勤申候乍併

出火後者米価追々引上諸色とも高料ニ相成

市中之困窮いふ斗なし

小豆壱升 二百三拾文   大豆壱升 百八拾文余

空豆一升 二百三四拾文  米壱升 二百八拾文斗(無程百七拾文ニなる

餅米壱升 三百文斗     油壱升 五百五、六拾文

酒壱升   三百文      塩壱升 五拾文

麦壱升  二百四、五拾文  大■米  二百二、三拾文

右ニ准し味噌豆腐香之物野菜廻りに至るまて

皆高直引上往古より未曾有之責価也

 

御公儀様ニ者乱妨之人々御吟味厳敷大阪出口々々者

不及申其外近国近在ニ者諸大名方より番所を立往

来人を一々御改厳敷近辺之海川池などへも網を入山林

竹林等残方なく草を分て御吟味ニ付悪徒追々

被召捕又者自殺之者も有之候然れ共張本人大塩

 

45頁 原 画

平八郎同格之助両人者一圓ニ行衛不知依而市中之

者不安心ニ而用心深き輩ハ猶蔵之目塗をも不取危

踏居候處摂州摩那山ニ大塩父子隠居候よし風説

有之依之西組与力内山彦次郎初組同心四ケ所浜方

之者大勢召捕ニ被向候得共人違ニ而浪人体之もの召捕

立帰られ候然る處三月下旬油掛町美吉屋五兵衛

(更紗職)方ニ大塩平八郎同格之助隠居候よし訴人

之者有之三月廿六日早朝より諸役人美吉屋之

八方を取囲廿七日早朝ニ内山彦次郎右油掛町江向

ひ美吉屋五兵衛を隣町会所江呼寄糾明有之候

 

同五兵衛宅より出火いたし候故諸人大ニ騒立火役之者

追々駆付内山氏ハ早速美吉屋江踏込裏口ニ行向ハれ

候ニ土蔵之後に別座敷有之通口之戸堅固ニ〆切有

之候得ハ内山氏大音声ニ名乗かけ大塩平八郎父子

立出て尋常ニ勝負致せと呼かけられ候時平八郎

聲ニ而罷出相手ニ成可申と答候得者相待被居候

處其後者猶々音も不致候故内山氏手之者ニ被申付

戸を投し平八郎ハ自害ニ及ひ候故脇差を奪被取候ニ平

八郎早々家中江飛入候勿論火勢強く候故川組火

 

46頁 原 画

役之者ニ火消申付両人之死骸を為引出候ニ早頭髪

面部共焼爛相好相分不申候へとも平八郎父子ニ違ひ

無之由故近辺之医師之古乗物江平八郎死骸を

乗同格之助死骸も駕に乗五兵衛ハ勿論信濃町会

所迄被引取候尤平八郎火薬ニ而座鋪を焼候と相見へ

申候明銅の火鉢者せ彼有之よし申候此内東西町奉行

も出馬被致火者火役共消申候扨内山氏ハ大塩父子之

骸を高原ニ引渡し其所ハ先手役人村之者並火消

三人二行ニ相成其次ニ死骸之乗物を縄にて巻両方

ニ木札を掛大塩平八郎死骸と大文字ニ書て提有之

 

次ニおなしく両方へ木札を下ケ大塩格之助死骸と書

其次ニ美吉屋五郎兵衛(六拾才斗)縄付き之侭駕ニ乗上を縄ニ

て巻舁行其後より内山彦次郎組同心佐川豊左衛門

銅関弥治右衛門 其余人数大勢附添信濃町会所より

本町通を心斎橋南江渡り大寶寺町東江九之助橋

より高原牢屋敷江引渡され候是を見物する者雲

の如く霞之如く寄合乱妨の張本たる大塩自滅を

祝諸人初而安堵の思ひをなしぬ

因ニ曰右美吉屋五郎兵衛妻ハ已前大塩屋敷ニ

奉公いたし候者ニて実ハ平八郎乳母之由其縁ニ而夫婦

 

47頁 原 画

とも大塩方へ出入致し年来恩義を受ると見へ

たり平八郎実子弓太郎(天保七年冬出産)出生之砌にも

初着として陣羽織を贈り候よし且又此度乱妨之

印織旗等も五郎兵衛より染遣し候由云々扨平八

郎父子を二月廿三日比より裏之別座敷ニ人しれず隠

し置折節米炭鰹節醤油等を運び遣し候を

平八郎親子炭火ニ而煮焚し命をつなき潜ニ隠

れ居候を知るもの更になかりし處五郎兵衛方ニ奉公

いたし候下女何とやら夫婦之体を怪敷おもひ三月廿

日比虗病を構へ保養之ため親元へ帰り両親ニ右

 

怪敷様子等咄し候由親里ハ平野郷ニ而当時の御城

代土井大炊頭殿領分の百姓故早速御城代之御家

来衆江注進に及ひ候依之西御奉行堀伊賀守殿

江御通達有之則御手当ニ相成内山召捕ニ向われ候由

風聞有之候 

 

三月廿七日御触書写

一 去月十九日市中放火乱妨ニおよひ候大塩平八郎父子

油掛町三吉屋五郎兵衛方ニ忍ひ居候風説有之

為召捕組々者差向候處両人とも致自殺相果其

 

48頁 原 画

外悪徒之者共追々召捕又ハ自殺いたし申候間其

段令承知無掛念普請等も致し諸商人共無危

踏商売可致候

 三月廿七日酉上刻両御奉行所より御城代江御書

上之写

大塩父子居所相知自殺仕候儀左ニ申上候

跡部山城守

堀  伊賀守

 

今般油掛町美吉屋五郎兵衛方ニ大塩平八郎並

同人倅格之助忍罷在候旨伊賀守組与力内山

彦次郎承込即刻同組同心共江手配申附右五

郎兵衛を他町江誘引出し平八郎父子居所相

糺候處右之者竊ニ囲置候義相違無之旨申聞候折

柄御手前御家来衆も申合五郎兵衛宅江踏込候

處表裏戸〆り堅固ニ付打破押詰候處火を放し

銘々持居候脇差を以自殺仕掛候ニ付平八郎脇差

者取上候得共家中江飛入火勢強寄附兼候ニ付父

子焼死仕候火中より死骸引出申候私共義も

 

49頁 原 画

早速出馬仕死骸見合仕候処惣体焼爛難相分

候得共最初踏込候節乍間遠言葉を掛慥ニ見届候

旨彦次郎其外之者共も申候右もき取候脇差ハ

右之者所柄ニ而南組之者平日見覚罷在候品之由

申聞候平八郎父子死失ニ相違無御座候委細之義ハ

猶追々可申上候 以上 

      三月廿七日

                         跡部山城守

                         堀 伊賀守

     

     乱妨人徒党連名並召捕自殺之写

               当時隠居   大塩平八郎

               東組与力   同格之助

右両人ハ乱妨之張本人也うつほ油掛町三吉屋五郎兵衛

宅ニ忍候處三月廿七日露顕ニ及ひ座敷ニ火を放し

平八郎格之助を手ニ掛火中江なけ込自分も自

殺し火中ニ飛入死ス骸当時塩漬

               東組与力   瀬田済之助

 

50頁 原 画

一旦迯延候得とも御手当厳敷剃髪之風体見

苦敷相成河州恩知村山中ニ而縊死ス骸当時

塩漬

               東組与力   小泉渕次郎

二月十九日暁七ツ時比東御役所ニ而御糾明之節迯

出し候を跡部山城守殿家来一条一と申仁追掛遠

国役所におひて討果され死亡ス骸当時塩漬

               東町与力平八郎伯父  大西与五郎

                          同倅  善之丞

右者平八郎連判ニ不相加候得共親族ト申殊更大

切之使者ニ立なから途中より虚病を構へ私宅ニ

迯帰り剰へ騒動を聞付兵庫迠迯行大小を海

中江投捨迯かくれ後倅善之丞と同時召捕ニ相成

入牢

               同組同心    渡邊良左衛門

右之者も一旦迯延候得とも御手当厳敷處立寄方

無之哉剃髪いたし迯さまよひ終ニ河州

 

 

 

 

  


盬平勢衰記6  大塩平八郎乱妨一件 翻刻版

2017-04-07 00:32:29 | 大塩平八郎

51頁 原 画

樫原ニ而二月廿一日自殺いたし 但シ余人を頼候哉

首切有之 骸当時塩漬

                      同  近藤梶五郎

右も迯延候得共三月九日ニ立戻り自分居宅之焼

跡ニ立帰り雪隠之後之辺ニ而切腹す 殊の外見事

之由 骸当時塩漬

                      同  平山助次郎

二月十七日夜反忠訴人ニより同夜山城守差図ニ而

江戸表江遣ハさる

                      同  吉見九郎右衛門

右反忠内訴之書附を倅莫太郎ニ渡し置出養生

いたし居候か騒動を聞付福嶋五百羅漢近辺迯行

被召捕

                      同  河合郷左衛門

平八郎ニ諷諫致候得ハ大ニ叱られ手こめに逢候而大ひに

恐怖し騒動のおこらさる前二月十日比四才の倅

 

52頁 原 画

を連逐電し当時行衞しれす

                      同  庄司儀左衛門

平八郎鎗術之門弟ニ而当日剛勢相働キ候處

大筒火廻りあしく候故附木ニ而火を付置なから火口を

覗キ過て大傷致し片手不叶様ニ相成其上焔硝

之煙ニ而眼中をそこなひ歩行不自由ニ付右悪徒共

迯去候節邪魔ニ相成候哉途中ニ捨置候を辛くして

南都辺落行候を奈良町奉行寺田丹下組之者召

捕大坂江引渡ニ相成

                      御弓同心  竹上萬太郎

二月十九日朝騒動聞付其侭迯出し方々江立退候

得共御吟味強く中山寺辺ニ而若戎と申茶屋ニ而

召捕られ候其後組頭江家名相談之願書差出シ

候写

      家名相続之儀奉願上候

私義譜代惣恩之義不奉忘却候忠重孝厚志之

立雖不肖不可有心懸然る所此度一儀私当月十一日

師敬知縁之者死之場をすくわんとして却而此謀ニ

53頁 原 画

落入られ不得止事約議仕候雖然小身之謀計

何そ取ニ足らん依之早速不奉申上誠ニ中々急速

とも奉存候處存外之一件不知身上處乱筆不顧

家名相続之義偏ニ奉願上候 恐惶謹言

  天保八年丁酉二月         竹上莫太郎

                        名乗書判

      上五兵衛様

      鈴次左衛門様

 或曰右莫太郎一味血判しながら当日ニ成迯去といひ

 右之如き願書を差上候条臆病未練之白痴漢也

 且願書も甚拙き文体旁以一笑ニ堪たり

              玉造口御組与力   大井庄一郎

右之者ハ玉造口大井伝兵衛倅也先頃より勘当

うけ申候由此庄一郎平八郎ニ一味し乱妨之朝

平八郎差図を受近江彦根之家来(名苗字不分明)の子

息兼而学問之為平八郎方ニ寄宿致し罷在候

を鎗にて突殺し血祭りニ致し候由其後騒動之

 

54頁 原 画

場迯去京都千本道ニ而京都町奉行組之者召捕

大坂江引渡ニ相成入牢

或曰右彦根家中之子息義平八郎一味ニ進込候

得とも不承知申立候故屋鋪内ニ虜同然ニ留置

騒動之暁酒宴之席ニ而一味之儀勧メ候得共

固く辞退し候故平八郎大ニ憤り庄一郎ニ申付

血祭ニ突殺させ候由抑此人は何人そや自分之門弟ニ而

聖経之一巻をも教導せし者なるを情なく殺害ニ

及ぶ事人面獣心とやいふへき可憎云々

               河州吹田神主平八郎伯父

                                        宮腰志摩守

右之者ハ当日乱妨之人数ニ加り其後私宅江迯帰り養

母を切害し自分も切腹いたし候處切損じ服少

し斗切近辺之川江はまり死亡す但し此者倅ニ

助命之願書を残し置しと言

           守口村質屋  向井孝右衛門

右之者ハ当日乱妨之人数ニ不加身上柄宜敷騒動之

日飯を焚悪徒江送候よし其後迯去伏見ニ而御奉

行加納遠江守殿組之召捕大坂江引渡しニ相成

 

55頁 原 画

入牢

          般若寺村庄屋  橋本忠兵衛

右之者ハ騒動之人数ニ加わり後迯去候節平八郎

家内之者ニ行合同道して落行江戸路ニ而

京都之組同心ニ被召捕大坂江引渡しニ相

成入牢

               浪人  梅田源右衛門

右者剛勢之曲者ニ而大塩方之大筒支配と

成先手ニ進町々を放火し後談路町ニ而坂

本弦之助の為ニ鉄炮ニ而討留られ死亡ス当

時塩漬

      天満九丁目住医者  高橋九右衛門

中山辺ニ而御城代御家来ニ被召捕入牢

               カマト三番  茨田郡二郎

御城代御家人召捕

 

56頁 原 画

              勢州山田御師   安田図書

              平八郎家来     西村利三郎

              指内野村       木村主馬之助

御代官根本殿家人召捕入牢

                       上田幸次郎

         信州溝口聖天堂預り  志村周作

                        額田幸五郎

                江戸浪人  深尾治兵衛

                        白井義四郎

                        上田与市右衛門

 

                        堀竹礒治郎

                        同 半十郎

                        曽我長輔

                       河山良助

              平八郎家来  杦山三平

                    同  曽我岩蔵

                    同  西村喜八

                    同  同 七郎

                    同  同 忠五郎

                    同  同 金助

 

57頁 原 画

右之者共所ニ而召捕入牢

                       横山千済

                       梶岡源右衛門

                       同  伝七

右之者共御代官家人召捕入牢

                      猟師  金助

右之者ハ至而鉄炮之名人ニ而平八郎兼而頼ミニ思ひ居候

處当日遅参ニ及ひ途中ニ而被召捕入牢

 

                  平八郎家僕当十四才  松本麟大夫

右ハ松本寛吾と申医師之倅也大塩江学問修行

之為奉公ニ罷越候当日人数ニ加り伏見ニ而召捕ニ相

成此者之白状ニ而徒党之名前又ハ其日之成

行大体相分申候由当時入牢

                      百姓  百五十人斗

皆々召捕ニ相成入牢

               東組与力済之助父

                      瀬田藤四郎

                      同  嫁

                      同 倅四才

 

58頁 原 画

         平八郎実子当二才  今川弓太郎

                   平八郎妾格之助妻

                        同  下女

右之者共皆召捕ニ相成当時拘り家ニ入

                    美吉屋五郎兵衛

                    同 並娘

右ハ初入牢之所妻子ハ宿下ニ而御預ニ相成五郎兵衛者

当時惣会所預ニ相成

版木師市田次郎兵衛

大工  治助

職人  治兵衛

書林河内屋喜兵衛

同  同茂兵衛

同  同吉兵衛

同  同新兵衛

此輩ハ落文之版木を彫又は木筒を拵へ或ハ平八

郎書物を買取なとせし吾咎ニ而当時町内御預ケ

或ハ他参止仰附候

 

59頁 原 画

     於江戸表矢部駿河守殿より御老中江

      進奉之写

昨廿九日夜六ツ時過跡部山城守組同心平山助治郎外

大坂表異変ニ付山城守差図之趣を以同人より

私江之書状致持参候間一読仕候處組与力大塩格

之助父大塩平八郎重立不易容企致候由右助次

郎内察申聞候ニ付即刻御当地江差立候間面談之

上委細承り候様申越候故面会仕候處一体同人者

去年正月中大久保讃岐守大坂奉行之節ハ町

目附者唱候役付申渡有之右ハ都而町奉行之組与力

 

同心共勤方並市中之風聞其外奉行手元隠

密之御用向為取斗候役筋ニ而近親之外同役

等出会も不致出来候ニ付其後者平八郎宅江も

不罷越候處同六月中同人門弟山城守組同

心渡辺良左衛門罷越自然異変等有之節

者忠孝之為ニ者身命を抱候哉之旨申聞不

審之義とハ存候得とも素より入順故右体之節覚

期ハ宜敷哉之旨外門人共代々申条一体平八郎

平常軍論文は政談を専に致し剛気之

者故全煉武之心附とも有之哉と存罷在候處

 

60頁 原 画

当正月六日前書之渡辺良左衛門並同組同心

近藤梶五郎清服ニ而罷越奉書紙ニ認メ候

書附持参致一読之上承知候ハゝ書判可致旨

申聞候得とも漢文ニ而更に読兼候間良左衛門

ニ為読聴致候處治乱を不忘臨時進退懸引

等之儀を認メ候趣ニ而外ニ怪敷儀も無之殊ニ

不同意ニ候ハゝ可討果勢ひニ付任其意書判致シ

候處当月上旬日不覚夜中竊ニ平八郎面談

致し度儀在之候旨申越候ニ付罷越候處火矢を

削其外門人共集り居昨年以来米穀払底ニ付

 

庶民及困窮畢竟御政道不行届之故之儀ニ付御城

代町奉行ニぞ寄有之候間若存立候節者一味可

致旨平八郎申聞如何と者存候得とも於其場容

易ニ異見等申聞候とも可取用様子ニも無之即座

ニ仇を可為勢ニ有之候間素より命を惜候而已ニハ

無之候得とも全く犬死致候より

公儀之御為第一と致覚期其場者程能及挨拶

尤平八郎平常口癖之様ニ御政事向其外御役

人等を種々批判致し不取留儀等申出舌論ニ而

已成行候も心外ニ付得与心色相探実否を顕シ

 

 

 

 

 


盬平勢衰記7  大塩平八郎乱妨一件 翻刻版

2017-04-07 00:32:02 | 大塩平八郎

61頁 原 画

途中病気之節ハ手後ニ可相成と存小者多助

と弥助と申者両人召連俄ニ京地ニ御用向有之候

与申成同夜及深更大坂出立いたし於途中

実ハ御当地江罷下候段咄聞走参候内今切渡

海之砌前書平八郎宅より出火ニおよひ大坂表

及騒動候取沙汰有之不得止事右小者ともへ

同人存立之趣荒増申聞右体之事故猶路之程

さし急候得とも大井川出水ニ而川留有之漸

(此間写行不分よし也)致し着府候由申聞候全御為を心懸苦心

致し候無相違相聞へ既ニ助次郎内通ニより山

 

城守伊賀守巡検を致儀延引候故平八郎之不

落入計趣ニ而者助次郎於心底掛念之心配者

無之候得とも右之通一大事わ致内通候ものも

萬一遺恨を含誰瞞候者有之間敷も難斗此

上身分気遣敷尤揚り屋江差遣ハ相糺不容易

吟味手懸を失ひ候様成行候而者助次郎ハ勿論

山城守心配も水之泡ニ相成殊ニ助次郎並小者共

右体大切之義を弁へ候者之義旁揚り屋にハ難申

付右三人とも大名乃内江御預ケ有之方宜敷可在

御座哉ニ付早々右預之内御差図有之候様仕度奉存

 

62頁 原 画

候以上

三月朔日

江戸御老中水野越前守殿より東御奉行

跡部山城守殿江御感状之写

其方組与力格之助父大塩平八郎義不容易不

届之企をいたし放火乱妨ニ及候節早速出馬

消除並捕方夫々及差図悪徒共速々ニ散乱相

鎮候次第彼是心配之骨折候故之義与一段之事ニ

候不取敢此段可申聞との

御沙汰ニ候

                        水野越前守

    惣 評

抑大塩氏ハ其元阿州蜂須賀家の家中ニ

大塩平助と名乗三百石ニ而馬廻り勤る士あり

其祖流大坂東組与力ニなると謂り平八郎ハ元

 

63頁 原 画

尾州之産ニ而今川義定末葉之由幼少より大塩

氏之養子となると言夫故実子弓太郎ニ今川

を名乗せ乱妨之砌着用せし兜も今川義元之

所持之由其聞へ也此人生得大胆剛腸ニて釼術

鎗術鍛錬し且陽明学に眼をさらし軍学にも

通じ才智衆に秀て出勤中裁評早く賄賂ヺ貪

らず曽て弓削新右衛門之私曲を見て切腹させ四ケ所

之之者責て刑ニ行ひ或ハ僧徒不如法を誡め

或は切支丹之悪徒を罰し不幸の之良民を恵ミなと

し其名四方ニ聞へ当時之明士と称せられたり然共

 

天性短慮殺伐にて人を刑殺する事甚多且自分

文学武芸を自負高慢し人を見る事土芥之如く

又能を嫉の癖もあり一年退役を願ひて隠居之

身と成剃髪して中斎と号養子格之助を出勤

させて其身文武之門人を教導するのミ日を送り

けるに天魔外道所為にや不容易企を存附表ハ無

欲仁義を唱へ

公儀之政事を誹判して荷担之者をあさむき剰

へ倅格之助に娶すへき養子娘を自分之妾とし終ニ

男子出産するに深く寵愛惑溺し先祖の名なり

 

64頁 原 画

とて今川を名乗て弥逆謀之臍を堅メ蟷螂か斧を

もつて立車を打にひとし何の事なく市中を

乱妨して億蔵の人に憂苦をミせ其身ハ火中ニ

死て生前に地獄に堕そも是何之行ひそや夫物

ニ始在さる事なく克終有る事鮮との金言まこと成哉

始メハさしも賢士と称せられ終ハ乱妨奸賊の臭苦を

残す後世の人是を前車の誡として忠孝の道を知

るべし