2024年2月10日(土)、栄中日文化センター主催、「歩いて巡る愛知の古城と史跡」(2024年1~3月)「水軍の城・大野城と知多の名城・大草城へ行ってきました。
講師は七種英康先生です。その様子を、数回にわたって紹介します。
今回の訪問地です。
今回は➁ 大野城-5-
北を上にしました。
展望台には資料が展示されていました。
例えば、今回最も注目していた海運です。
文字起こししてみましょう。
元和7年(1621) 正月に、尾張藩では自国の廻船の船籍を示すために船印を定め、これを下田奉行へ届け出た。 下田では、上り(上方行き) 下り (江戸行き)の船を改めていたからである。(下田奉行所が浦賀に移されたのは享保5年 《1720》 12月である。) 船印は、木綿の総紺地に朱の丸を中央に入れた扇の紋を白く染めた四半のまといである。
日の丸扇の紋は、大野水軍を率いる佐治氏の紋であったが、 尾張藩船奉行となった千賀志摩 (師崎) が引き継いで家紋としていた。 それを尾張藩の船印としたのであるが、 木綿の総紺地に朱の丸を中央に入れた扇の紋を白く染めた四半のまといである。 四半とは、 幅と長さの割合を一と一半とにした布である。
朱の丸扇四半は、 徳川家から免許されたと言う伝来で、 知多郡 大野村( 常滑市大野町) の中村権右衛門 (廻船惣庄屋) と伊勢国四日市(三重県四日市市)の大野屋弥六が仕出元方を勤めていたが、その朱の丸扇船印は、寛保元年(1741)に廃止され、 「丸八」 の四半に改められている。
御用船には、 また船印の外に荷印の四半を立てたが、 荷印は、白地の木綿に 「尾」の字を染め抜いたものである。 荷印の文字も後に「御勘定「所御用」と改められた。 これらの印は、 船乗りたちの間では「御船印」とか 「御用」とか呼ばれ、大切に扱われたものである。
大野に現存する船名旗
尾張藩、 朱の丸扇、 船印の四半、 船荷印 「尾」の四半
萩原家蔵、 倍歳丸 (マストシ)倍久丸(マスヒサ)・寶玉丸 直吉丸 倍竹丸(マスタケ)
権田家蔵、永徳丸
平野 輝美
読めばなるほど、ですね。
この他にも、たくさんの資料が展示されていました。ぜひご自分の目でご覧ください。
佐治神社です。南の端に当たります。
左が一色社。中央が佐治神社。右の石像は佐治一成(与九郎)。
佐治一成(与九郎)
さらに東側をのぞき込むと・・・・すごい高さ!
大野城址の碑です。
土塁が高い!
堀を歩いています。
昔の人が、手で掘ったのですね…。
これだけの幅の堀を掘ったのです。
動画を見てみましょう。
大草城へ向かう途中、振り返ると大野城の北側が見えます。
明日に続きます。
次は、蓮台寺です。
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