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<世界遺産の「天皇陵」>(上) 被葬者?でも呼称見直さず 

2019-07-24 06:14:19 | 歴史関連情報
中日新聞より<世界遺産の「天皇陵」>(上) 被葬者?でも呼称見直さず を紹介します。


 https://chuplus.jp/paper/article/detail.php?comment_id=665119&comment_sub_id=0&category_id=203&from=news&category_list=203

興味ある記事です。
7月23日(火)夕刊からの引用です。


 全長四百八十六メートルもある大山古墳の堀沿いを歩いていると、日本語と英語の案内板に出くわす。大きく「仁徳天皇陵古墳」と書かれ、英語で「Mausoleum of Emperor Nintoku(仁徳天皇の墓)」とある。

 百舌鳥・古市古墳群には宮内庁が管理する二十九基のうち、天皇や皇族の名前が付いて世界遺産になった「陵墓」が七基ある。「学術的に被葬者が確定していないなかで、名称に特定の被葬者名を付すことは誤った理解を導く」。昨年九月、日本考古学協会など十三団体は呼称の見直しを求めたが、受け入れられなかった。

 大阪府と地元三市が、古墳群を世界遺産の候補に-と初めて国に提案した二〇〇七年の文書が府のホームページにある。当初の呼称は「仁徳陵古墳(大山古墳)」だった。

 地元関係者によると、文化庁や宮内庁と協議するなかで併記されていた「大山古墳」が削られたという。文化庁の下田一太文化財調査官は「天皇陵古墳という呼称は、宮内庁が天皇の墓として管理している古墳という意味。地元などが管理する他の古墳と違った守り方をしていることが伝わりやすい」と語る。

 宮内庁が墓の主だとする人物は、ほとんどが幕末から明治に決められた。国立歴史民俗博物館の松木(まつぎ)武彦教授は「神話の時代から一貫して一つの血統が続いているという天皇の権威付けに、古墳が利用された。今では実在しない可能性が高いと考えられている天皇の墓だと決められた古墳も多い」と話す。当時は古事記や日本書紀、地元の伝承などが墓の主を決める際の根拠となった。「考古学の蓄積がない時代なので、誤りが多い」と指摘する。

 例えば遺産登録が決まった古墳の一つ「上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳」。宮内庁は仁徳天皇を継いだ履中(りちゅう)天皇の墓だとしている。だが、仁徳陵だとされる大山古墳より年代が古いことは考古学の研究で明らかだ。

 宮内庁は戦後、古墳の被葬者を変えたことはない。「別の人物の名を刻んだ出土品などが出ない限り、被葬者が違うとは言い切れない」というのが宮内庁(森山保雄陵墓課長)の文書回答だった。

 松木教授によると、古墳時代には東北から九州にかけての豪族が、近畿地方の豪族を中心にゆるやかな同盟を結んでいた。近畿では複数の豪族から一人の最高権力者の「大王」が選ばれ、豪族たちをたばねていたという。松木教授は「一つの家系の天皇が、国を統治していたという見方では、古墳時代は理解できない。幕末以降に天皇の権威を目に見える形で示すために古墳が利用されたことが、誤解を招きかねない呼称の問題につながっている。考古学者は学術的な見方を根気強く伝えていかなくてはいけない」と話している。

 
考古学的な調査は不可避です。

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