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フェルディナン・ド・ソシュールは1857年、 スイスのジュネーブにあるソシュール家の息子として生まれました。 このソシュール家は過去に様々な学者を輩出した名家であり、 最高の教育環境が揃っていたといって良いでしょう。 ソシュールはその環境を余すことなく享受し、 10歳前後で4カ国語をマスターしたと言います。 大学在学中に言語学の論文などを発表し、 1880年にはパリの高等研究所にて語学の講師を勤めながら研究に励みます。 1891年になるとジュネーブ大学の特任教授となり、言語学について教鞭をとります。 ソシュールの死後、この講義を学生らがまとめ【一般言語学講義】として 出版したことが、彼を一躍有名にさせました。 ソシュールは、それまでの言語学の流れを大きく変えました。 それまでの言語学では、 ある言語が、過去から現在にかけてどのような変化を辿ってきたか? について研究がされていました。 しかしソシュールは 『過去を知らなくてもみんな言語を使っているんだから、 言語を理解するのに歴史は必要ないのでは?』と考えます。 彼は、歴史を考慮しないその時点の言語のルールのことを【共時態】と呼び、 共時態が次の共時態へと変化していくことを【通時態】とし 言語学はまず、共時態を研究すべきだと主張しました。 彼は、現時点で使用されている言語という概念について徹底的に考えました。 その上で、言語を二つの側面に分けて考察します。 一つは【パロール】 これは個々の発話行為を指します。 我々が言葉を発するとき、それを【パロール】と呼んで問題ないです。 もう一つは【ラング】 これはある言語の文法や規則の体系のことです。 日本語話者同士がコミュニケーションを取れるのは、そこに一定のルールがあるからです。 【パロール】と【ラング】を合わせたものが言語の全体像になるわけですが、 彼はこれを【ランガージュ】と呼びました。 つまり、ソシュールは【ラング】について研究するのが言語学である。 と考えたわけですね。 ソシュール以前の学者は言語名称目録観を支持していました。 言語名称目録観とは、存在に対して一つ一つにラベルが貼られているかのように ものの名前が成立しているという考え方です。 りんごという物質には人間が存在する以前からりんごという名前が設定されていた。 今考えると違和感だらけですが、当時はこの考え方が主流だったのです。 しかし、それでは言語によって対象の切り取り方が異なることに説明がつきません。 例えば、日本では蝶と蛾は別の昆虫だと認識されています。 綺麗なアゲハチョウを見て「蛾だ」という日本人は少ないはずです。 しかし、フランスにおいては蝶も蛾もどちらも『papillon』と表現します。 フランスでは蝶だろうが蛾だろうが、同じpapillonという昆虫なのです。 存在に最初から名前がついているならば、これは矛盾です。 ソシュールはこれについて 『個々の存在に意味は存在しない。 それらは隣との対立関係によってはじめて成り立つ』と考えました。 例えば、それぞれの存在に名称があって、 それらが集合している状態はこのように表現できます。 箱の中に四角い物体がぎっしり詰まっている状態です。 仮にこの状態から、Bを抜き取ったとしましょう。 その場合、抜き取られたBという空間を埋めるものは何もなくなってしまいます。 Bという名称と一緒に、Bという物質も消えてしまったことになります。 ソシュール以前の言語感はこれに近かったと言えるでしょう。 一方で、ソシュールはこのように考えます。 例えば、赤っぽい色の集合を図に表すとこんな感じになります。 この状態から萩色を抜き出すとどのようなことが起こるでしょうか? 隣にあった赤とピンクが萩色の領域を埋めることで、 何もない空間が補填されているのが分かります。 萩色という言葉がこの世からなくなっても、 その両隣にある言語によって、萩色に対応していた色への呼び名が補填されるのです。 つまり、蝶がいるから蛾がいるのであり、逆も然りだというわけです。 どちらかがなければ両者はpapillonでしかなくなってしまうのです。 ソシュールは言語が音として成り立つ側面を【シニフィアン】 言語が意味を持つ側面を【シニフィエ】と呼び、 この両者が結びつくことで【記号(シーニュ)】が生まれると考えました。 つまり、『ちょ う ちょ』という発音自体がシニフィアン 『ひらひらと飛ぶ昆虫』という意味のことをシニフィエとして、 この二つが合わさることで、蝶々という言葉が完成するわけです。 そして、何よりも重要なのが、 シニフィアンとシニフィエの両者がこのように結びつくのには なんの必然性もない。ということなのです。 たまたま音と意味が結びついただけ。 この考え方を【言語の恣意性】などと表現します。 このようにして、言語の秩序を細かく分類していくことで、 存在に最初から名前が付けられていたわけではなく、 偶然言語のルールの中でその結びつきが作られていて、 それらは他の言葉との対立関係の中で存在している。と結論付けたのです。 この言語論的転回は、後の言語学だけでなく、 実存主義の後に活発になる【構造主義】へと大きな影響を与えます。
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