哲学チャンネルより 情念論|デカルト 紹介を紹介します。
ここから https://www.youtube.com/watch?v=v8Obpgj1oLs&t=2s
動画の書き起こし版です。
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【情念論】は1649年に出版されたルネ・デカルトの著作です。 我思う故に我ありの【我】からスタートした哲学は、 精神と身体は同一のものではない。という【心身二元論】を生み出し その理論で感情について説明を試みたのが本書です。 本書の中でも触れられますが、 それまでは人間の死は精神の不在だと考える常識がありました。 しかしデカルトは「人間の死は単に身体が壊れただけ」と言い放ちます。 本書の中でも身体の仕組みについて詳しく言及されます。 まず、身体において一番重要な臓器は心臓です。 デカルトは心臓には炎のような熱があると考えました。 その熱が作用することで、全身に血が巡ります。 血が脳に向かって流れるとき、血の細微な部分だけが細い血管をくぐり抜け脳の中を満たします。 この部分を【動物精気】と呼びます。 動物精気が体中に作用することで、 身体の様々な運動が引き起こされると考えたのです。 方法序説の動画でも触れましたが、現代の医学から見ると 「何言ってんだ」という理論なのですが、 この理論をもって人間は自動で機械的運動をしているとしたのは とてつもない着眼点だったと感じます。 (現に最先端の科学では、人間は自動で機械的運動をしているという説が有力になっています) ちなみに、ワインを飲むと特殊な動物精気が作られて 身体が異常な動きをする。のように アルコールの影響もこの理論で説明しています。 身体の仕組みについてあらかた説明をした後に、今度は精神について言及します。 【情念論】においては【精神と身体】に加えて【能動と受動】という概念がキーワードです。 これらの要素を組み合わせて、人間の精神のすべてを説明しようとします。 まず精神の能動。 精神の能動は【意志】と表現することができます。 これには大きく二つの種類があり、 一つは『精神のみで完結する能動』です。 神を思うとか、哲学するなどはこれにあたります。 もう一つは『身体に命令を出す能動』です。 精神が身体に命令を出し身体がそれを受動的に受け取るものですね。 人間の脳には【松果体】という部位があります。 デカルトはこの松果体を【心の座】と表現し、身体と精神の交わるところと考えていたようです。 スピノザの心身並行論と比べてデカルトの心身二元論が批判されがちなのは このような二元論っぽくないところにあると考えています。 話を戻します。 精神の受動にも2つの種類があるとします。 一つは精神の知覚。 これは『精神のみで完結する能動』を受動的に知覚したものなので 前者とおなじものと見なせます。 もう一つは身体を起因とした精神の受動です。 いわゆる感覚や知覚ですね。 さらに身体を起因とした精神の受動は3つに分類できます。 『五感を原因とするもの』 『痛みなど身体の内部で発生するもの』 『恐れや愛など、それ以外の感覚』 最後の感覚のことを【情念】と呼びます。 このようにして情念の定義が完了した後に、 情念について詳しく解説します。 情念の構成要素は『驚き』『愛』『憎しみ』『欲望』『喜び』『悲しみ』の6つに分かれていて、 これらが派生したり結合したりすることで様々な感情が生み出されると言いました。 また、悲しみに対して身体がどう作用して涙が出るのか?のように 精神と身体の関係性についても触れています。 古くから情念はマイナスなイメージで捉えられてきました。 例えば、ストア派の哲学においては情念は悪と見做されます。 創始者のゼノンは、情念(パトス)や情動を克服して【アパテイア】(無情念)へと至る道を説きました 【情念論】においては、情念を肯定的に捉えています。 「情念は意志の力でどうこうできるものではない」としながらも、 まずは情念が引き起こされるプロセスをよく知り 理性の善悪に従う、つまり徳に従うことで 情念は善いものになると考えていたようです。 情念論の結びにはこう書かれています。 情念に最も動かされる人間は、人生において最もよく心地よさを味わうことができる 『THE・俺の考えた人体の構造』のような内容でもありますし それによって現代の常識とのギャップも多々感じる作品のため 人によっては読むこと自体が苦痛になるかもしれません。 しかし、デカルトの指摘するとおり 【情念】というものが如何にして我々の目の前に現れるか。 これをさまざまな角度から検証することは 平静な人生を送る上で非常に重要なことではないかと感じます。 もしご興味があればぜひ手に取ってみてください。
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