ものづくり中部の革新者たちⅢ より 落合兵之助を紹介します。
去る2022(令和4)年9月10日(土)に名古屋都市センター(金山南ビル内) 11階「まちづくり広場・企画展示コーナー」で行われた、第17回パネル展 での学びを振り返ります。
ここから http://csih.sakura.ne.jp/panerutenn.html
今回は、落合兵之助 常に大志を抱き続けて ドイツ人との友好と鍍金技術の導入
1. 革新実業家 (12)
落合兵之助 (1866~1932) 常に大志を抱き続けてードイツ人との友好と鍍金技術の導入一
■その生涯
落合兵之助は、陶磁器やガラス用金液開発のパイオニア的企業、 日本金液株式会社の創立者として活躍した実業家である。
兵之助は、 1866 (慶応2) 年、 小牧市上末で漢方医の家に生を受けた。 幼くして祖父母、父親が他界し、寺院などに預けられながら成長する。 やがて簪の量産化、 安全ピン、 金液の国産化などを手掛け、 名古屋のみならず、 日本の産業界に重要な役割を果たすことになっていく。 幕末から昭和まで駆け抜け、 常に大志を抱き続けた人物でもあったが、 1932(昭和7)年、65歳の生涯を閉じることになる。
■金液国産化の契機当時日本では金液・ラスターは生産しておらず、 第一次世界大戦の影響でアメリカなどから輸入が困難となった。 そこで、金地金をアメリカに送り、 金液に加工したものを再び日本に送り返し陶磁器の上絵付けに使用するというのが現状であった。 安全ピン製造とメッキ工場を経営していた兵之助は、 金液とラスターの研究を開始し、次第に国産化を目指したいと考えるようになる。
■ドイツ人俘虜の来名
第一次世界大戦時、日本は日英同盟に基づきドイツと戦った。 戦場はドイツの租借地、 中国青島であった。 ドイツ軍の敗北で俘虜5千名が日本各地に送られ、 名古屋でも、俘虜収容所に500名ほどが収容された。 新たな技術の吸収には積極的であった兵之助は、 特殊技能をもつドイツ人俘虜を雇用することとした。
■金液研究の開始
1918(大正7) 年3月、 マックスとクーヘンの両技術工と通訳1名を雇用する。 さらなる鍍金技術向上を望んでいた兵之助は、 化学技術将校エンゲルホンを雇い入れ共同研究を開始する。 1919(大正8)
年、第一次世界大戦終結に伴い、 俘虜の大半は帰国したにも関わらず、 エンゲルホンは研究半ばとして名古屋に残留し、 兵之助とともに研究を続ける。 その後カールメルクが加わり、 ドイツからペテルセン技師が交代要員として来日するなど多くの技師 が兵之助と金液研究に関わっていき、遂には海外製品と比肩しうるレベルにまでに至った。
■日独間の友好と信頼
ドイツ人俘虜の雇用は、 新たな技術向上が発端であったかもしれない。 しかし、 俘虜の多くが帰国したのちも、日本に留まり共同研究をし、さらには兵之助の事業のためにドイツから新たな技術者が来日し協力し続けた。 落合兵之助が名古屋の産業発達の一翼を担うことができたのは、彼の研究熱心さのみならず、 ドイツ人との友好を築き上げた人柄も影響しているのではなかろうか。
(朝井佐智子)
ものづくり中部の革新者たちⅢ 第17回パネル展に行ってきました
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2018年度 第14回パネル展 モダン都市名古屋の形成
2017年度 第13回パネル展 中部における国産車のあゆみ
2016年度 第12回パネル展 東海の綿織物・毛織物と産業遺産
2015年度 第11回パネル展 東海の絹・文化と産業遺産
2014年度 パネル展と講演会 近代名古屋の発展と海外の関わり ~戦前の国際都市名古屋の形成~ PART2
2013年度 パネル展
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