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近江FWⅢ -9-

2024-11-25 07:25:09 | 取材・旅行

近江FWⅢ -9-

令和6年11月16日、いつものメンバー(積知積徳会)で、観音寺城周辺へFW(フィールド・ワーク)に行ってきました。その様子を数回にわたってお知らせします。

今回の訪問地周辺です。

安土城や近江八幡城、沙沙貴神社ついては 近江FWⅡ をご覧ください。

今回は、観音正寺-2-です。観音正寺-1-は -4- をご覧ください。

前回の図です。

右上、裏参道から来て、観音正寺を経て、西の本丸からぐるっと回って帰ってきました。

南側の景色です。

現在、千手観音の体内仏が公開されています。

2mほどの湖東流紋岩が、お地蔵さんのように並んでいます。

本堂の火災で山の土が焼けて崩れやすくなり、山崩れを防ぐために石を積んだそうです。

観音像が二体安置されています。右下の祠は縁結地蔵尊です。


札堂です。


 

護摩堂です。


看板がありました。

文字起こししてみましょう。


聖徳太子伝説

人魚の伝説
 今から一四〇〇年前の用明天皇の御代、近江国を遍歴していた聖徳太子は琵琶湖の湖面から浮かび上がってきた人魚に出会います。人魚が語るには「私は生前、漁師をしておりましたが、あまりにも無益な殺生を繰り返していたためこのような姿になってしまいました。日々、湖中を彷徨い苦しみに堪えております。どうか私を元の人間の姿に戻していただき、成仏させてください。」と子にすがってきたのでした。哀れに思った太子はこの人魚の願いを聞き
入れ成仏させる事を約束します。 人魚との約束を果たすために千手観音の像を刻み寺が建立されました。これが人魚の伝説です。

 

天楽岩の伝説
 湖東を訪れた太子は、織山 (きぬがさやま)、別称天蓋山(てんがいさん)の山頂に紫雲が棚引いているのを見て、この山は霊山であることを知ります。太子はこの山に入り導かれるままに山頂まで登りますと、そこに巨岩が現れ、その巨岩の上で天人が舞うのを見、この山こそまさしく霊山であると悟られました。天人に導かれ巨岩が重なり合った岩室
に籠って瞑想しておりますと、目の前に天照皇大神宮と春日大明神の二神が現れ「山上に湧く水で墨をすり千手観音のお姿を描くように」とお告げを受けます。太子はお告げの通墨をすり、水湧く池の辺りに立つ柳の枝で筆を作り千手観音を描きました。そして、千手の御影を柳の枝にかけると同時に、次は釈迦如来と大日如来の二仏が現れ「織山の霊木にて千手観音を彫像しなさい』と啓示を受けます。 太子は尊像を刻み、天人が舞っていた巨石に安置して国安穏の祈りを捧げました。 そしてこの尊像を安置するために堂塔が建立されました。これが天楽岩の伝説です。

 

星の伝説
 『天楽岩』と名づけられた巨岩のある聖域が織山の中心的な聖地となり、現在は奥之院と呼ばれています。奥之院には人間の生命の営みを象徴する男岩・女岩があり、その中央に天楽岩へと続く石段が続いております。そもそも奥之院は当山の出家者修行僧しか入ることを許されておりませんでした。奥之院の磐座(いわくら)の内部には、太子が織山で山籠した折に、天上に北極星と北斗七星がひときわ輝いているのを見て描いたとされる北天の中心の星北極
星を仏の姿として表現した妙見菩薩(尊王菩薩)とその他の四仏、合わせて五仏のお姿が描かれています。これらの五仏は太子自ら厄難を除くために描いたと伝わっております。当山には北斗七星を祈る尊星王法が伝承されており、毎年二月の節分にその法要が厳修されております。
 これらの伝説は一四〇〇年間代々語り継がれてまいりました。この人魚伝説 星の伝説からは災難を除いてくれるという「厄難除け」、そして天人に太子が導かれたことや、男岩女岩の巨岩からは「縁結び」というご利益が伝えられているのです。 良縁は男女だけではありません。人生の中で良縁に恵まれることは、たとえ災難が起こったとしても乗り越えることができ、善き人生が歩めるのです。
 当山は観世音菩薩が住する聖地であり、善き人生を歩むために祈りを捧げる聖地なのです。


なるほど。こうした建立の縁起を知るとお参りするときの構えが変わります。

いよいよ本堂です。

右手から入ります。

喚鐘でしょうか?

一般に、法要や儀式などの開始を知らせる合図として打つ、青銅製の小型の鐘です。

本堂の後門や回廊などに吊るされ、片手に木槌を持って撞座(つきざ)を打って鳴らします。

どんな音がするのかな?


明治期、彦根城の欅御殿を拝領して本堂としましたが、平成5年(1993年)その本堂を焼失するという憂き目を見ることとなりました。平成16年(2004年)には新しい本堂が落慶、新たに開帳された御本尊は、母なる仏教の国インドより特別に輸入した白檀で彫像されました。
観音正寺は古来より万事吉祥の縁結びの祈祷道場として、老若男女の尊崇を集め、四季を通じて景勝を楽しめる名刹です。

 説明出典 http://kannonshoji.or.jp/about/

千手観音とこのロープ?はつながっています。


この柱に体をくっつけて祈願しました。

本堂と同様に新たに再建された御本尊は、総白檀の千手千眼観世音菩薩座像です。インド政府から特別な許可を受けて輸入された香木「白檀」の原木23トンを使用してつくられたもので、像高6.3メートル、座高約3.5メートルという日本最大級の大きさを誇ります。

胸の前で合掌している手が2本、そのほかに左右20本ずつ、合計42の腕があると思われます。一般的には、後ろの40の腕は、天上界から地獄界までの25の世界をそれぞれひとつずつカバーして、合計千本の力を発揮すると言われています。

画像出典は http://kannonshoji.or.jp/about/ 観音正寺HPです。

本堂は明治期に彦根城の欅御殿を貰い受け移築したものでしたが、平成5年(1993年)に本堂と本尊を焼失。その後、平成16年(2004年)に木造入母屋造の新しい本堂が落慶しました。そして新たな御本尊として総白檀の丈六千手千眼観世音菩薩座像が安置されています。本堂の眼下に広がる蒲生野の美しい景色はいにしえより変わらぬまま。近年造営された新しい本堂ではありますが、慈悲深い観音様が鎮座する堂内はサンダルウッド(白檀)の香気にあふれ心安らぐ空間です。

 記事出典 http://kannonshoji.or.jp/about/


胎内仏の写真が中日新聞の記事にありました。

画像出典 中日新聞 https://www.chunichi.co.jp/article/100083


看板の説明にありましたように、聖徳太子がこの地を訪れた際に出会った「人魚」の願いにより、この寺を建立しました。
その人魚は、前世が漁師であり殺生を業としていたために人魚に生まれ変わってしまい苦しんでおり、聖徳太子に自身を成仏させてほしいと懇願しました。
聖徳太子はその願いを受けて観音正寺を建立し、自ら千手観音像を作って本尊としました。

観音正寺には人魚のミイラが残っていましたが、1993 年の火災により焼失してしまいました。この時には本堂、本尊ともに消失しています。
現在では、慶派(運慶・快慶)の流れを汲む松本明慶により本尊の千手観音が造立されています。

焼失した人魚のミイラの写真が残っていました。

画像出典 https://walktrip.net/2472/


動画です。

滋賀県 『観音正寺』 ~人魚伝説の寺~ 西国三十三所第三十二番札所


見ごたえのあった観音正寺を後に、予約しておいた昼食場所に行きました。

「ろくまる」です。

滋賀県東近江市五個荘石塚町72-6 

カツが柔らかく、とても美味でした。超おすすめです!  

動画です。

東近江市でランチを迷ったらココだ。

ろくまる【滋賀県東近江市 】女将さん、大将の愛情たっぷり料理がいただけます💕ボリューム満点で食べ応えあり🌺女将さんの笑顔が素敵✨💕


明日に続きます。

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