関ヶ原の戦いと親子、兄弟の相克
前日の九鬼水軍がらみで・・・・
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中世には水軍・九鬼氏が蟠踞する地であり、秀吉の天下統一にも貢献して志摩の戦国大名に成長した。しかし関ヶ原の役で西軍についてしまったことから後に摂津三田に封じ込められた。
幕府は九鬼水軍を恐れ、海から離れた地に移封しました。
産業は一貫して漁業で、鰤の大敷網漁のほか、江戸期には捕鯨も行われていた。
九鬼氏により鍛えられた漁師、さらには武士から漁師に変った人たちにより、捕鯨が行われたことがわかります。
九鬼氏は、三田を代々治めています。
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もう少し詳しい解説を引用しましょう。
また嘉隆の子である守隆は関ヶ原の合戦で東軍に付て活躍し、その功績によって加増され、5万6000石を領します。
しかし、その守隆が寛永9年(1632)に没すると、五男の久隆と、三男の隆季との家督争いが起きてしまいます。
この御家騒動には幕府の介入を招き、九鬼家は2つに割られて、久隆は3万6000石で摂津国三田へ、隆季は2万石で丹波国綾部へと移されることとなりました。以降、2つの九鬼家は幕末まで、三田と綾部の土地で続くことになります。
ここで気をつけたいのは、三田も綾部も、海に面していない内陸の土地だということです。つまり、九鬼水軍はその軍事力の源である海を奪われたのです。九鬼水軍の軍事力・海運力は、幕府にとって邪魔だったのでしょうね。九鬼家としては、まんまと家督争いを利用されてしまったわけです。
九鬼 嘉隆 は西軍に付きましたが、東軍に息子を付かせました。当時の武将は、家を守るために、親子や兄弟が東西に分かれて戦ったのです。
有名なのは真田家。父の昌幸と幸村が西軍に、そして信之は東軍に参加しました。
前田利長とその弟・利政の兄弟は、関ケ原で東西に分かれて戦いました。
江南市出身の二人の武将もそうです。
蜂須賀家政は、家臣を大坂に派遣し西軍に付いたふりをして、自らは剃髪して高野山に。子の蜂須賀至鎮を東軍につかせます。至鎮が亡くなった後、家政は復活しています。
生駒 親正 も同じ。秀吉の大恩のために西軍に味方し、兵を派遣しますが自らは病気を装い本戦には参加しません。
さらに子の生駒一正は東軍につかせます。
関ヶ原の戦いに翻弄されたことがわかります。
しかも、家政や親正は、西軍についたふりをして参加しませんでした。勝敗の行方は分かっていたのです。
西軍総大将・毛利輝元のいとこであり家臣の吉川広家が東軍についたのも、おそらくそのためでしょう。