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関ヶ原の戦い-なぜ徳川の時代に?-11-

2009-07-17 06:54:25 | 社会科関連情報
 関ヶ原の布陣 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/0/05/Sekigahara.png

 布陣を見ると、どう見ても西軍有利。
 よく知られた話ですが、明治政府のお雇い軍人メッケルは、「これなら西軍が勝つ!」と断言しています。

 それでは実際はどうだったのでしょうか?

 ⑱ 島 左近 対 黒田長政

 中学生の頃、「レッド・サン」という映画を見ました。
 三船敏郎とチャールズ・ブロンソン、アラン・ドロンという、世界のビッグスターの競演が実現した、当時としてはレアル・マドリードや一時の巨人軍のような映画でした。
 その終盤の場面には、アランドロンを追っかけてきた三船が刀で威嚇しますが、アランドロンに一発で打たれてしまいます。離れた距離では、日本刀は拳銃にはかないません。

 さて、名将対決、島 左近 対 黒田長政はどうなった?

 前日に勝利して気をよくしている島 左近でしたが、いきなり長政の鉄砲隊に撃たれます。
 このシーンが、関ヶ原の戦いを象徴する一場面です。

 家康は、国友から多くの鉄砲を献上されているように、鉄砲を上手く活用しました。
 一説では、当時、世界の50%の鉄砲が日本にあったと言われています。
 新しい道具に対応する柔軟性、これも勝者の条件です。

 ⑲ 島津家の意地、毛利軍の分裂

薩摩隼人といえば、島津 義弘。
 ゲーム界では、三国志の張飛みたいな豪傑キャラになっているほどの強者です。

 彼の動きは、西軍を象徴している気がします。

 「家康には恩があるから、東軍につきたいんだ。伏見で孤立している鳥居元忠を助けようとしたけど断られ、西軍に取り囲まれ、やむなく西軍につく事を承諾したんだ。でも、三成は、今が攻めるチャンスと言ってもいう事を聞かないし…。早く九州に帰りたい。」

 「どっちでもよいから、勝つ方につきたい。」は、日本の選挙でも見られる光景です。

 それでも島津隊は奮戦しましたが、最後の最後に敵中を突破しながら退却します。1,500人で九州を出て、再び九州の土を踏んだのはわずか80人でした。

 西軍の総大将・毛利軍の吉川広家は毛利元就の孫。
 しかし、東軍につきたく、黒田長政と内通します。

 三成は、南宮山の毛利軍に進軍を要請しますが、吉川広家の部隊が予定通り反逆します。
 「これから弁当を食べるから」と言って居座り、毛利本隊の進路を塞ぎます。これで毛利軍は身動きが取れなくなってしまいました。

 ここは、家康の情報戦の勝利と言うべきでしょう。

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