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関ヶ原の戦い-なぜ徳川の時代に?-10-

2009-07-16 05:07:53 | 社会科関連情報
 いよいよ決戦です。気になるのは、両軍からラブコールを受けている小早川の動きです。

 ⑯ 松尾山の小早川秀秋

 そもそも、小早川秀秋はどんな人?

 ねねの弟の五男で、秀吉の義甥で養子。子どものいなかった秀吉の跡継ぎになってもおかしくない人でした。ところが残念ながら人の上に立つ能力に欠けていました。
 秀頼が生まれて養子は不要になり、黒田如水の斡旋で、毛利家の分家、小早川隆景の跡継ぎになったのです。

 朝鮮出兵でも、三成に厳しく評価され、秀吉によって53万石から12万石への降格処分となります。
 これを、元に戻したのが家康なのです。 

 これで、秀秋の立場が分かりますね。
 三成に、「関白にしてあげる」と言われて西軍に入りますが、元来、三成には恨みを、家康には恩を感じていたのです。

 その秀秋は、突然 関ヶ原の近くの松尾山に陣を移します。登ってみるとわかりますが、歩いて40分ほどかかる山です。そこからの眺めは抜群!
 その松尾山は、後の三成本陣と家康本陣とのトライアングルを形成する、戦況を眺めるにはベストポジションだったのです。

 もともと西軍の別の部隊がいたのですが、秀秋はその部隊をどかして、そこに居座ってしまいました。

 決戦前日の出来事です。


 ⑰ 大垣城から関ヶ原へ

 本来、大坂城の豊臣秀頼か総大将・輝元が出陣していれば、家康軍を挟み撃ちに出来たはずでした。
 ところが、淀殿が反対して三成のねらいは崩れます。

 そのなかで家康はさらに西へ向かう素振りを見せます。
 それは阻止しなければいけません。そこで三成は大垣城を出て、関ヶ原方面へ転進します。

 関ヶ原は、中山道と北国街道、伊勢街道が交わる、日本のへそなのです。

 いよいよ9・15決戦が始まります。

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