兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~ 展から考えるー3-
当日購入した図録に、学習院大学名誉教授の鶴間和之先生が、次のように書かれていました。(一部抜粋)
等身大の兵馬俑の謎
中国古代の歴史を、 2200年以上前に中国をはじめて統一した始皇帝 (前259-前210年、 在位:前247 前210年) を中心に振り返ってみよう。
始皇帝は前221年の統一の11年後に50歳で病死し、 その4年後には秦王朝は瓦解した。
始皇帝が秦王から皇帝に即位した12年間を象徴するものが、 等身大で作られた兵馬俑である。なぜこの時代に、中国史上唯一リアルで等身大の兵馬俑が作られたのか。 その謎を解くには、始皇帝の前と後の時代に目を向ける必要がある。
500年間の春秋戦国時代、200年間の前漢時代、「兵馬俑と古代中国」というテーマは、 春秋戦国時代、 始皇帝の時代、前漢時代の3つの時代に見られる兵馬俑を比較しながら古代中国の歴 史を振り返るものである。
中国古代の人々は、 人間の姿を写し取り、地下で眠る死者の世界に収めるものをとか偶人といった。木や土で作るので、 木桶、 木偶人あるいは陶俑、 土偶人という。 一方、生身の人間を死者の墓室に収めることを従死 (一般には殉死)といった。 春秋戦国時代の秦では (秦の歴史は殷周から春秋戦国、 統一の時代に継続するので、 春秋秦、 戦国秦、統一秦と区別する)、 秦公(恵文王から秦王となる)の墓に殉葬が行われていた。
殉葬者の数は、武公は66人、穆公は177人にも及ぶ。 殉葬の対象は人間だけでなく馬などの動物にも及び、馬の場合は車馬坑と呼ばれている。 景公の陵墓とされる秦公1号墓には166人の殉葬者の棺が残され、 真馬と戦車が埋蔵された車馬坑も隣接して作られていた。車馬坑も兵馬俑坑も陪葬坑である。『詩経』 の黄鳥の詩に見るように、葬の習俗は批判された。
春秋時代末の孔子は、 俑は殉葬を引き起こすものだとして批判した。俑の法が、殉葬より古いという見方である。戦国時代の秦の献公は殉葬を止めた。
ここには等身大の理由が書かれておらず、もっぱら「俑」を「殉葬」に代えるものという書き方です。
昨日には、古代エジプトの殉死の様子を紹介しました。
「俑」と「殉葬」は無関係という人もいますが、私もやはり関係は深いと思います。
なぜ等身大か?
私は、西方のヘレニズム文化を知る民族との交流により、秦の人には等身大の発想があったのではないかと想像しています。
秦は、戦国時代、最も西にありました。
展示物には、ヘレニズム文化の影響を感じさせるものもありました。
統一秦は、その発想と、経済力、動員力が結びつき、等身大になっと思われます。
ところで、次のような記事を見つけました。
指を盗まれた騎兵俑はおよそ2000年前に作られたもので、その価値は450万ドル(約4億8000万円)と推定されている。
兵馬俑は面白い!
公式サイトです。
ここから https://heibayou2022-23.jp/
解明!中国兵馬俑の謎
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