私は福島県立安積高校で、社会科の授業を、第一学年で受けていた。
これは、皆が、(選択授業じゃなく)受けていた。
その第一学年の社会科では、現代社会の授業なのだが、その中で、第一に現代社会科、その内にも、政治経済科(政経科)と、倫理科、とに分かれ、それらが第一学年社会科として一緒になっていて、それぞれ、政経と倫理は、別々の先生が、担当していた。
私は元々、社会科が大得意であり、これは、おはこ、十八番と言って良い程の、大好き、大好物の科目であった。
まず、その時の政経の授業では、たしか、山田先生という、まだその頃は若い先生だった。
いろいろな事を、その先生には教わった。
先生は、音楽の歌手では、その頃は元々大御所で、リバイバルで再流行しつつあった、「井上陽水」のファンである事を、公言してはばからなかった。
その、井上陽水のファンの影響を受けて、私まで、後に、井上陽水が大好きになってしまった。
それから、先生は、七十年代の話をして、他にも、吉田拓郎とかが、その時代、先生が青春時代に、活躍していた事等を授業で聞いた。
先生は、神奈川県の横浜市にある、神奈川大学卒であり、その、前の年は別の、県立小野高校だか、田村高校だか、どこか、遠くの、高校を受け持っていたらしい。それが、母校の安積高校に担当が決まり、同職の教師職の、同じ母校、県立安積の元同級生や先輩などから、おまえが安積高校に、担当、受け持ちが決まるなんて、私らを差し置いて、何てラッキーなんだ、おまえは、と言われた事共を、私ら生徒に、告白した。
その先生は、一応左翼がかっていて、学生運動はそのころ下火になっていたので、その先生も、そんな、過激な運動には関わった事はなかったらしいが、いつも、先生は、「社会党」の、宣伝マン、というか、それと、「朝日新聞」の宣伝マン、というのを兼ねた、左翼の闘士、といった風の、教師像、であった。
それと、先生なりの冗談も交えて仰っていたのは、安高(あんこう)の庭にて、四葉のクローバーを、その学生当時、せっせと探して、集めていたら、丁度、ラッキーにも、願いが叶い、その先生が安高生時代に、同じく偏差値トップクラスの、安女(あんじょ・福島県立安積女子高校)の彼女と出逢う事が出来て、何と、結婚まで行き着いたと言う。
当時、安高・安女のコンビ、アベック、ペア、カップル、恋人同士、というのは、願っても見ない程の、良縁であり、最高度の、幸せな関係、と、安高生の間では、羨望のまなざしでうらやましく見つめられ、受け止められていた。
これと、倫理の授業は、よりお年を召した、高齢の、六角勲先生という、先生だった。
先生は、古代ギリシア・ローマの哲学やら、古代から現代に至るまでの哲学者、ヨーロッパやアメリカ、中東他の、世界や日本、中国、インドを問わず、宗教家についても、ありとあらゆる思想哲学について、論考して、先生なりの思想観、世界観を提示して、生徒であった私達、安高生に教えて下さった。
その時、先生は仰った。先生の、宗教観、宗教を選ぶにあたっての、極意というものであった。「宗教を選ぶならば、必ず、何と言っても、伝統宗教を選びなさい。伝統宗教は、何百年という、風雪に耐えて来ただけの、選ぶ価値、選び甲斐がある宗教だと言う事が言える。絶対に、伝統宗教を選びなさい」とこう、教えた。
先生は、仏教の項目になると、仏教の諦観、諦める、と言う事、御教えにも触れ、「諦める、という、諦観とは、ただ単に、物事を投げ出して、逃げ出しやめてしまう事ではない。そこには、”あきらかにきわめる”、という、一念があるのだ。それを、仏教の諦観、諦める、という」と教えた。
後で、色々と、私自身も、仏教を学んで行くうちに、先生の仰った事が、本当であり、真実である事を、後に知ることになる。
兎に角、第一学年の県立安積高校の社会科の授業に於いて、私の人格、人生観、宗教哲学に関するセンス、志向、思考方法等々を、皆、習い修めてしまった、と思う程の、これら両先生の、私の青春時代、思春期の時代を、夢中で駆け抜け巡った、私の半生は、人生は、これで決まった、という程の影響を受けた。今は、宗教は、鎌倉時代からの伝統宗教の日蓮正宗。政治は、政経の先生を他山の石、反面教師とした、右派右翼、保守系の政党他、支持者となった。
これら先生方、社会科の先生には、感謝してもし尽せない程、お世話になりっ放しであった。
ちなみに、この時の私の社会科の成績は、クラスでもトップクラスであり、全第一学年の番付表にも、成績の上位に上り載る程の、私のその時その頃の、社会科大好き人間の為せる業であった。
以上。よしなに。wainai