杉本寺の十一面観音像のことが知りたくて白洲正子の『十一面観音巡礼』を読み直してみました。そのなかの「こもりく 泊瀬」の項では、奈良の長谷寺にある十一面観音像が紹介されています。読んでいて驚いたのは、描かれている事物名称と鎌倉が似ていること。一つは長谷寺の初瀬川を挟んで向かいの山にある「与喜天満宮」のこと。そこの菅原道真の神像は「怒り天神」という忿怒等身の坐像。鎌倉の荏柄天神社にも「怒り天神」の名の木造の天神坐像があります。その位置は二階堂川を挟んで向かい合わせ。また与喜天満宮の山には「化粧坂」という峠があり、これが初瀬から伊勢に抜ける一番古い街道であったとのこと。この「化粧」の意味は、斎宮である姫が化粧をして神に変身することではないかと作者は推測しています。遊女の化粧よりそれらしく、これかなと思った次第です。そして「天照大神と、十一面観音を、同体とみなす本地垂迹説にふれ、十一面観音が、天照大神の「御杖」となって、諸国を遍歴する斎宮の姿と重なったと思われる」とも書いています。
そしてもう一つ、「坂東三十三観音」に触れなければなりません。公式サイトによると、その歴史は、「源平の戦いの後、敵味方を問わない供養や永い平和への祈願が盛んになり、源頼朝の篤い観音信仰と、多くの武者が西国で見聞した西国三十三観音霊場のへの想いなどが結びつき、鎌倉時代の初期に坂東三十三観音霊場が開設された」とあります。そして杉本寺(杉本観音)は第一番の札所になりました。西国三十三観音の第一番札所は和歌山県那智勝浦にある「青岸渡寺」。これは熊野詣が信仰の対象となっていた時代ですから当然でしょう。実際我が国最古の十一面観音はこの那智で発掘されています。坂東三十三観音の第二番札所は逗子の「岩殿寺(岩殿観音)」ですが、海に近いということと、巡礼の順序からすれば、岩殿寺が一番であってもよさそうですが、何か事情があったのでしょうね?そしてこのお寺の詠歌がいいですね。「たちよりて 天の岩戸をおし開き 仏をたのむ 身こそたのしき」 天照大神と神仏習合の歌です。
こうして見てくると、「坂東三十三観音霊場巡礼道」を開設するということは源頼朝にとって非常に大きな意味があったことだったと思います。巡礼道とはそこを通行する人の安全を保障することですから、頼朝の関東支配が完結した証左だったのでしょう。頼朝が杉本寺に十一面観音を寄進したのも分かるような気がしました。