先日の報道で2022年のNHKの大河ドラマは北条義時とその時代が描かれることが発表されました。鎌倉市民にとっては嬉しいニュースです。脚本は三谷幸喜で主演は小栗旬。どんなふうに描かれるのか楽しみです。
前置きはさておき、本ブログのタイトルにある北条泰時は義時の子供で鎌倉幕府の三代執権です。前にも紹介しましたが、鎌倉幕府の基礎をつくった人物でもあり、私のお気に入りの一人でもあります。鎌倉幕府創建のころ、寿永二年(1183 )に北条泰時は生れました。その苦労は祖父である北条時政と父義時が背負っており、元服(12歳)した建久五年(1194)は世の中も落ち着いてきた時期です。
私はこの泰時が仁治三年(1242)に60歳で亡くなるまでの年表をみて、彼の人生にとってエポックメーキングとなる事象がほぼ10年ごとに起きているなと、思いました。20歳の建仁二年(1202)に三浦義村の娘と結婚、31歳の建保元年(1213)に源実朝の学問番に選任、39歳の承久三年(1221)に承久の乱。42歳の元仁元(1224)に執権になりますが、49歳の寛喜三年(1231)には寛喜の大飢饉。その翌年に本題である和賀江島の築港と御成敗式目の制定という大事業を成しています。そして死ぬまでの10年間は、叡山延暦寺や南都の興福寺と対立し、深沢に大仏を建立したりもしました。
さてそうした中での和賀江島の築港は歴史的にどう評価したらいいのでしょうか。これは結構な大事業です。わずか1カ月位で完成したとはとても思われません。写真で確認いただきたいのですが、和賀江島は相模川や酒匂川から集めた直径30㎝位の石を積み重ねて出来ています。今の時代ならコンクリで固めるか、テトラポットを投入するなどして護岸を造りますが、重機のない時代にどれだけのヒトが動員されたか?私は和賀江島の築港は寛喜の大飢饉で疲弊した社会の救済事業ではなかったかと推測しています。
そしてもう一つ。和賀江島が出来たことにより潮の流れが変わり、飯島の南側に砂が堆積して浅瀬が出来たと思います。その7百数十年後に浅瀬に目をつけ、鎌倉霊園の土砂を使い逗子マリーナを造成するという一大事業を成し遂げた人物がいました。誰とは言いませんが、和賀江島がなければ逗子マリーナはなかったかもしれません。これはあくまで妄想です。