人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --熱田神宮に参拝する--

2022-03-06 12:13:37 | 日記

誓願寺を訪ねたあと、国道22号線を渡り目の前の熱田神宮を参拝しました。ここでは熱田神宮の由緒については詳しく書きませんが、参道に古代から現代に至るまでの歴史が記されていますので、興味ある方は是非現地に行って確認することをお勧めします。その中の「中世ー武家政権のころ」という1枚を紹介します。説明書きの写真は、神護寺の源頼朝像と誓願寺門前のものでした。

武士が台頭するころ、当神宮の大宮司藤原季範の娘(由良御前)が源氏の棟梁、源義朝に嫁ぎました。その子どもが征夷大将軍となった源頼朝です。頼朝は鎌倉の地に武家政権の幕府を開いた後、外祖父が大宮司を務める当神宮を篤く崇敬し、鎌倉の鶴岡八幡宮に「熱田社」を勧請しました。また、牛若丸(源義経)奥州藤原氏のもとに向かう時、大宮司を烏帽子親として元服したと伝えています。

ここで注目したのが、頼朝が鶴岡八幡宮に熱田社を勧請したという件です。現在この熱田社がどのようになったかは確認できていませんが、『鶴岡八幡宮寺』(貫 達人著 有隣新書)に、弘安の大火(1280年)で焼失した多くの社殿などを弘安四年(1281年)に再建したという文中に、熱田社の名前が出てきますので、勧請されたのは事実かと思われます。

写真は熱田神宮本殿を写したものです。この本殿の左側、距離にして100~200m位の所に頼朝生誕地とされる誓願寺があります。まさに境内の一部であり、頼朝が篤く熱田神宮を崇敬したと伝わることからも、熱田神宮の別邸で生まれたという話も信じたい気持ちになりました。

 

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鎌倉を知る --源頼朝生誕の地?を訪ねる--

2022-03-06 10:33:50 | 日記

源頼朝は久安三年(1147年)生まれたと言われています。昔のことですから、死んだ年(1199年)と享年(53歳)から遡及して生年を推定しているようです。父は源義朝。母は「熱田大宮司」藤原季範(すえのり)の娘で由良。ただ『源頼朝』(元木泰雄著 中公新書)によれば、この母の名前や生誕地がどこだかはよく分かっておらず、元木氏はたぶん京都で生まれてたのでないかと書いています。

何が真実かは不明ですが、名古屋市にある熱田神宮のそばに誓願寺というお寺があり訪ねてみました。写真の通り門前の石柱には「右大将頼朝公誕生旧地」あり、その脇の名古屋市教育委員会の案内板には「源頼朝生誕地」の説明がありました。

この地は平安時代の末期、熱田大宮司藤原氏の別邸があったところで、藤原季範の娘由良御前は、源頼朝の正室となり、身ごもって久安三年(1147)熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだといわれる。 享禄二年(1529)別邸跡に、妙光尼日秀、世にいう善光上人により誓願寺が建てられた。妙光山と号し、西山浄土宗の寺で、本尊は木造阿弥陀如来像である。

さらに名古屋市博物館蔵の『尾張名所図解』(江戸時代末期から明治初期にかけて刊行された地誌)にある「誓願寺」には、敷地図内に頼朝祠や頼朝誕生水の記載があります。

この誓願寺は熱田神宮の本宮に向って左側の国道22号線沿いで東海道五十三次七里の渡しからは歩いて10分ほどの場所にあり、江戸時代には東海道を行き来する人々で賑わった場所でした。お伊勢さん詣での物見遊山の旅人には格好の観光名所だったと思われます。

 

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