誓願寺を訪ねたあと、国道22号線を渡り目の前の熱田神宮を参拝しました。ここでは熱田神宮の由緒については詳しく書きませんが、参道に古代から現代に至るまでの歴史が記されていますので、興味ある方は是非現地に行って確認することをお勧めします。その中の「中世ー武家政権のころ」という1枚を紹介します。説明書きの写真は、神護寺の源頼朝像と誓願寺門前のものでした。
武士が台頭するころ、当神宮の大宮司藤原季範の娘(由良御前)が源氏の棟梁、源義朝に嫁ぎました。その子どもが征夷大将軍となった源頼朝です。頼朝は鎌倉の地に武家政権の幕府を開いた後、外祖父が大宮司を務める当神宮を篤く崇敬し、鎌倉の鶴岡八幡宮に「熱田社」を勧請しました。また、牛若丸(源義経)奥州藤原氏のもとに向かう時、大宮司を烏帽子親として元服したと伝えています。
ここで注目したのが、頼朝が鶴岡八幡宮に熱田社を勧請したという件です。現在この熱田社がどのようになったかは確認できていませんが、『鶴岡八幡宮寺』(貫 達人著 有隣新書)に、弘安の大火(1280年)で焼失した多くの社殿などを弘安四年(1281年)に再建したという文中に、熱田社の名前が出てきますので、勧請されたのは事実かと思われます。
写真は熱田神宮本殿を写したものです。この本殿の左側、距離にして100~200m位の所に頼朝生誕地とされる誓願寺があります。まさに境内の一部であり、頼朝が篤く熱田神宮を崇敬したと伝わることからも、熱田神宮の別邸で生まれたという話も信じたい気持ちになりました。