『史伝 北条義時』(山本みなみ著 小学館)を読んでいましたら、由比若宮の隣のページに古代鎌倉のラグーン地図が掲載され、滑川の東側、今の材木座の辺りは明治のはじめまではラグーン(浅い海)だったと書かれていました。そのラグーン図だけでは現在の地図に重ねて場所が特定できませんので、「ラグーンがあった場所からは建物の跡は発見されていない(大澤泉氏のご教示による)」という文章を手掛かりに、山本みなみ氏の勤務先である鎌倉歴史文化交流館を訪ねてみました。
もう一つの興味は、このラグーンのヘリを古東海道が通っていたのではないかという推定です。古東海道は源頼朝が鎌倉入りする前から京都から下って蝦夷地に行く道です。鎌倉市内では稲村ケ崎から笹目辺りを通り、今の由比若宮、辻の薬師堂、そして鎌倉市立第一中学校から逗子に向かうルートではないかと以前資料で読んだ記憶があります。
鎌倉歴史文化交流館には学芸員の方がいますので、図々しくも受付で質問してみました。ご対応いただいた方から鎌倉市教育委員会文化財課の紀要がホームページにあるので参考にしてみてはとのアドバイスをいただき、「古代鎌倉郡家の”津”をめぐる一考察」(文化財課主任研究員 押木弘己)という論文に辿りついたわけです。確かに現在の地図にプロットしてみますと、鎌倉市街地の南側に大きな池が広がっています。
鎌倉アルプスの十王岩から眺めたら、京都の巨椋池のある景色に重なったかもしれません。巨椋池というのは、京都の今の伏見あたりから南側に広がっていた大池のことですが、その眺望は見事だったようです。さらに妄想が広がりますが、源頼義は京都の石清水八幡宮を勧請し由比若宮を創建しました。石清水八幡宮は巨椋池西側の男山(八幡市)にあります。源頼義が蝦夷地に向かうとき、古東海道が通っていたこのラグーンのヘリを何度も行き来したはずで、鶴が飛来するこの鶴岡の地に由比若宮を創建したのではないでしょうか。これまで写真の由比若宮が材木座にあるのか疑問でしたが、このラグーンの存在と重ねると納得できる気がしました。