伝曾我祐信の墓から城前寺に下っていきますと弓張の滝への案内がありました。600m程度の距離なので曽我兄弟ゆかりの場所かとも思い行ってみることにしました。剣沢川の上流、曽我谷津というところにあります。滝までいきましたが、冬なので水量は少ないものの、雨の多い季節なら見ごたえのある滝かと思いました。案内板をには次のような説明がありました。
『鎧の滝・弓張の滝』 曽我の里の谷津と別所の境を流れる剣沢川の上流、剣沢山の深い谷筋に二段の滝があり上段は鎧の滝、下段は弓張の滝と呼ばれてきた。『新編相模国風土記稿』によれば、当時鎧の滝は高さ八尺(約2.5m)弓張の滝は一丈五尺(約4.5m)であった。 室町時代、剣沢には剣状の岩が立ち、名所として知られていた。文明八年(1486)の冬、ここを訪れた聖護院道與准后は「此頃はみさびわれたる剣沢ごほりしよりぞ名は光ある」。 また戦国時代には、風流をたしなむ小田原北条氏配下の数人の若侍たちが、この滝の下で藤の花見を楽しんだという。その一人はその情景を「滝水にうつろう影もしげり行松に契りてさける藤波」(小田原起)と詠んでいる。 小田原市教育委員会
説明文には、曽我兄弟のことは出てきませんが、曽我祐信の城からもさほど遠くなく、間違いなくこの場所は兄弟の遊び場だったと思われます。それに弓張の意味も書かれていません。また文中にある聖護院道與准后とは、室町時代に生きた聖護院の門跡で歌人。関白近衛房嗣の子。私と同じく冬に訪れたようで滝は氷結していたようです。