久しぶりの《禅語を愉しむ》編です。毎月送られてくる『花園』(妙心寺派宗務本所 教化センター発行)を読んでいましたら、この「無尽蔵の魅力 ~伊藤若冲~」(布教研究委員 大野泰明)というコラムがありました。その中に、若冲は、その名が示す通り「無一物中無尽蔵」を体現した人物であると書いてあります。知りませんでしたが、若冲の名は、『老子』の一説「大盈(だいえい)は冲(むな)しきが若(ごと)きも其の用は窮(きわ)まらず」に由来する。その意味は、最も充満したものは空虚のように見えるが、それを用いてもいつまでも尽きることがないと、大野氏は述べています。伊藤若冲の絵に「鳥獣花木図屏風」(ロサンゼルス在、ジョー・プライス所蔵)がありますが、この絵は色彩分割という手法で描かれ、枡目描きでもありますが、点描画の手法が使われています。色の違う一個一個の点(枡目)が無数に描かれ、それが一枚の絵をなすというものです。このコラムを読んだとき、すぐにこの絵を思い出しました。
さてここでまた『禅語カルタ百句』が登場します。この禅語は「無一物中無尽蔵 有花有月有楼台」という宋代の詩人、蘇東坡(そとうば)の七言絶句の転句と結句にあたるとあり、その意味は「心が空っぽだから、すべてを受け入れることができる。花、月、建物、無辺に広がるこの世界すべてを見てとることができる」というものだそうです。さらに、白紙の状態だったら可能性は無限大で、見る人の想像力で花でも月でも建物でも何でも入れることができるし、何にでもなれるとも書いてありました。華厳の世界の「一即多」微塵のなかに無限の世界を見ると同じ意味でしょうか?
写真は、この禅語と全く関係のない大山の雄姿です。昔の人は、この大山をみて神が宿ると考え、信仰の対象としました。このきれいなピラミッドに神の姿を想像したのでしょう。これはこの禅語と関係ない妄想でした。