写真は鎌倉大仏。よく見てください。お顔の右の頬にうっすらと金箔が残っています。そうです。今は青銅色ですが、往時の大仏は金色に輝いていました。それも15世紀後半からは露座になっていましたので、遠く海からもその姿が拝めたはずです。ではこの大仏は誰が何のために造ったのでしょうか?奈良の大仏は勅命で造られていますが、鎌倉の大仏は民衆の浄財を集め完成に至ったと言われています。青銅の大仏が鋳造されたのは1252年(建長四)。
同じ頃、稲村ケ崎の聖福寺谷の奥に聖福寺が建てられました。今は廃寺となっているこのお寺は、1254年(建長六)に北条時頼の二人の子供(正寿丸→時宗;福寿丸→宗政)の息災延命を祈念して、大旦那である北条時頼が直接かかわらず、鶴岡別当の隆弁僧正が「大勧進」となり民衆の助成によって創建されました。
そして極楽寺。このお寺は北条時頼の義父にあたる北条重時により1259年(正元元)に整備再建され、1267年(文永四)に忍性を招き、真言律宗のお寺となりました。北条時宗と宗政の母親は重時の長女です。
さらに長谷寺。このお寺も開山は徳道と伝わっていますが、誰が建てたのかはっきり分かりませんし、吾妻鏡にもこの寺の名前が一切でてきません。ただ奈良長谷寺式の十一面観音菩薩像や新長谷寺・文永元年(1264)と刻まれた梵鐘がのこされていますので、13世紀半ばには信仰の対象となっていたのは間違いないと思われます。
ここからは全くの推論となりますが、これらのお寺や仏像の整備には5代執権北条時頼やその後ろ盾である北条重時が深くかかわっていたのではないでしょうか。その目的は、時頼の子供の息災延命祈願か、宗尊親王を将軍にするのに必要だったのか、民衆の浄財は銅銭だったはずで貨幣経済の発展を図ったものなのか、社会安定のために民衆の救済事業が必要だったのか分かりませんが、もし意図して事業が行われたとすれば、北条時頼という人物は只者ではない気がします。僅か36歳の命でした。