『吾妻鏡』に建保四年(1217)に「将軍家、先生(せんじょう)のご住所、医王山を拝し給はんがため、渡唐せしめおはしますべきの由、思し食し立つによって、唐船を修造すべきの由、宋人和卿に仰す。云々」という実朝の渡宋計画の話が載っています。これについては様々な解釈がされ、極端なものは政治に嫌気がさし、孤独感を深めた実朝が日本脱出をはかったとするものもあります。実際どうだったかは謎ですが、これまでの多数派の意見はあまり実朝を評価するものはありませんでした。
ただ最近の研究では実朝の見方が少しづつ変わってきているようです。『源実朝「東国の王権」を夢みた将軍』(坂井孝一著 講談社選書メチエ)を読みますと、実朝の政治的手腕を随分に評価しています。そして将軍親裁を強化していくためには実朝を支持する勢力、いわゆる将軍派閥を形成することが北条義時に対抗するために急務であり、結城朝光を奉行に任じて「六十余輩」の随行者定めたことも、単に渡宋のための同船者選定というだけではなかった可能性もあると、著者は書いています。
加え「さらに想像をたくましくすれば、巨船の建造には、宋との貿易や、国内各地との海上貿易を、将軍として掌握しようとする意図すらあったといえるかもしれない。むろん、実朝がどれほどの真剣さや具体的な構想をもっていたかは不明であり、あくまで想像であるが・・・。」とも、「ひょっとすると、実朝は自由にふるまえる将来が訪れたら、ほんとうに宋に渡りたかったかもしれない。もともと、宋から帰国して寿福寺の長老となった栄西と親しく交わっており、宋の話を聞いて憧れを抱いていたと推測される。」とも述べています。
造船所にいた経験からしても、現代でもドック式でない進水は難しく、たまに失敗することがあると聞きました。まして鎌倉時代のことですから、失敗したからといって決して無謀な計画ではなかったかと・・・。私は将軍実朝は学者肌で合理的な思考をする人物だったと推測しています。そして坂井先生の書いた本を読み、私が以前このブログで書き、想像した実朝像が間違っていないのだと、意を強くしました。
写真は渡宋のための船が建造されたとされる由比ヶ浜から坂ノ下の海岸の遠景です。