最近『江島詣』(鈴木良明著 有隣新書)という本をみていたら、鎌倉霊所七瀬という図に出会いました。七瀬の場所は、①江島龍穴 ②固瀬河(片瀬川) ③金洗沢池(七里ヶ浜) ④由比ヶ浜 ⑤鼬河(イタチ川) ⑥六連(六浦) ⑦杜戸(森戸)です。鎌倉の市街地を取り囲むように配置され、その場所を結ぶと北斗七星の形になります。
『吾妻鏡』元仁元年(1224)六月六日には、「炎旱旬に渉る。よって今日祈雨のため、霊所に七瀬の御祓を行はる。由比の浜には国道朝臣、金洗沢には知輔朝臣、固瀬河には親職、六浦には忠業、鼬河には泰貞、杜戸には有道、江島の龍穴には信賢。この御祓は、関東に今度始めなり。この外、地震祭・日曜祭、七座の泰山府君は知輔・忠業・晴賢・泰貞・信賢・重宗等と云々。また十檀の水天供は辨僧正門弟等をしてこれを修せしむ」と書かれています。これは四代将軍藤原頼経が命じて行ったものです。
この祈雨の御祓がどういうものか、何故七瀬を結ぶと北斗七星の形になるのか分りませんでしたが、たまたま、いま東京国立博物館で開催されている「特別展 国宝 東寺」でそのヒントになる展示物を見つけました。それは「北斗曼荼羅図」というもので、天変地異や除病、息災、延命等を北斗法の本尊で、星曼荼羅とも呼ばれる画像です。北斗法とは、北斗七星への信仰に基づき、中国の占星術や陰陽五行説など道教の強い影響を受けた密教儀式のようです。ついでながら将軍頼経は十二所にある明王院を1235年に建立しています。
写真は霊所七瀬の一つである葉山の森戸にある森戸大明神です。神社の御由緒にも、七瀬祓いの霊所として重要な地であったとふれられています。今でこそ七瀬の霊所を地図上に簡単にプロットできますが、航空写真もない時代にどのように北斗七星の形になるように場所を選んだのか?星(せい)と瀬(せ)をもじったか?‥等。実に不思議で興味深い話ではありませんか。
侮れないぞ中世!! ますます妄想が膨らんできました。