安芸の宮島への旅の最後は大聖院です。お寺の由緒書きには、宮島にある寺院で最も歴史が深いのが、真言宗御室派(総本山仁和寺)の大聖院である。空海が唐より帰朝後宮島に渡り弥山で修業し、大同元年(806)に開基。鳥羽天皇の祈願道場として、明治天皇行幸の際の宿泊先に、秀吉が茶会を開いたこともある格式高いお寺。明治維新までは十二坊の末寺を有し、厳島神社の別当寺として祭祀を行っていた総本坊でもありました。また今回は登りませんでしたが、弥山の山頂付近の弥山本堂には虚空像菩薩、三鬼堂には弥山の守護神である三鬼大権現、大師修法の霊火を守る不動明王本尊の不消霊火堂などが建ち並んでいます。この霊火は「きえずの火」と言われ、806年に弘法大師が弥山にて護摩修業をされた時の残り火で、広島平和記念公園の「ともしびの火」の種火だそうです。私も20数年前に何度か弥山に登り、この霊火で焚かれている万病に効くという大茶釜の霊水を飲みましたが、今でも健康でいられるのはそのお蔭かもしれません。
写真は大聖院への参道で滝小路と言います。途中に棚守屋敷跡や林家住宅(上卿屋敷)などが並んでいます。案内板によれば、江戸時代、厳島神社は神仏習合の社として信仰を集め、その管理・運営は棚守・座主・大願寺によって行われていました。棚守は、神職を代表して神事を行い、自らも舞楽を舞っていた。林家は古くから厳島神社の神職をつとめ、朝廷の差遣される奉幣使の代参をつとめて上卿(じょうけい)とよばれていた。大願寺は、室町時代末期に厳島神社の修理造営権を握り、厳島神社諸建築の建造や復旧に当たりました。また鍛冶・番匠(大工)を檜皮師などの職人集団を率いていたとあります。どうもこの三位が一体となって厳島神社の運営にあたっていたわけで、神仏分離令によって仏の部分を無くすのは困難であったのではないかと考えられます。