人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

熊野詣 PART4 ーー番外編 道成寺--

2024-05-17 18:56:12 | 旅行

参加したツアーの1日目の夕食はホテルではなく、御坊市にある道成寺門前の食事処でいただきました。道成寺はツアーの立ち寄り先ではないので、タイトルは番外編としました。実は道成寺は和歌山県内で最も古いお寺で創建は大宝元年(701)。本尊の千手観音と脇侍の日光・月光菩薩は850年頃の作で国宝。延長六年(928)にあった安珍・清姫の事件は、娘道成寺として能や歌舞伎に取り上げられるほど有名な物語です。ツアーの番外編とはいえ、十分見る価値のあるお寺です。筆者は夕食を食べたあと、15分位自由時間がありましたので写真だけとも思い、急いで境内を一回りして戻りました。一生のうち何度も来れる場所ではないので、事前に調べておけばよかったと・・。とは言いましてもせっかくなので、道成寺のHPからの拾い読みですが、道成寺物語をまとめてみました。

創建は大宝元年(701)。文武天皇(683-707)が紀州に行幸された時、初代の本堂が完成し、その時を創建時としているようです。文武天皇は草壁皇子と元明天皇の子で、天武天皇と持統天皇の孫になります。藤原不比等の娘の宮子と結婚し、聖武天皇を生んでいます。律令制が整いはじめた頃になります。本尊は千手観音ですが、天平七年(735)に僧玄昉が千手千眼陀羅尼経を中国から持ち帰り、その後、千手観音像が盛んに作られるようになりました。道成寺本堂の千手観音像(国重文)はこのころ奈良時代の作です。宝物殿に安置されている千手観音、日光菩薩、月光菩薩は平安時代初期の作で国宝に指定されています。どうも昨年の青森の櫛引神社といい国宝の品々とはニアミスが続いているようで、自分の徳のなさを嘆いております。

次は安珍と清姫の物語です。実際みた訳ではありませんが、縁起堂では絵解き説法の画像で紹介されています。この物語はお寺の創建から230年経った延長六年(929)のこと。奥州から熊野詣にきた修行僧安珍が参詣の途中、一夜の宿を求めましたが、そこの娘清姫が安珍に懸想し、恋の炎を燃やし、恋が実らず裏切られたと知るや大蛇となって安珍を追い、最後は道成寺の鐘のなかに逃げた安珍を焼き殺すという話。この話は「法華験記」(11世紀)に記され、「道成寺物」として能楽、人形浄瑠璃、歌舞伎でもよく知られています。私もこの物語は聞いたことがありましたが、まさにその現場にいるとは思いもよりませんでした。この絵解き説法にはオチがあり、安珍が焼死、清姫が入水自殺した後、道成寺の住持は二人が蛇道に転生した夢を見、法華経供養を営むと、二人が天人の姿で現れ、熊野権現と観音菩薩の化身だったことを明かされます。

さて妄想癖のある筆者は、なぜに熊野詣の紀伊路の途中、日高川が流れる御坊市にある道成寺で安珍・清姫の物語が創作されたか妄想しました。安珍が熊野権現、清姫が千手観音の化身だったとすると、12世紀前半に出はじめた本地垂迹説によって熊野の神々を説明しようとしたのではないか?熊野の神様は本宮・新宮・那智を熊野三所権現といい、その本地仏を、本宮は阿弥陀仏、那智は千手観音、新宮は薬師如来とし、家津御子神・結神・速玉神は本地がそれぞれ仮の姿をとって現れたものと考えられています。那智の本地仏である千手観音が、安珍である熊野権現に懸想し、焼き殺してまでして一体化するという話だとすれば、なんとなく納得できます。もしそうだとすれば、国宝の千手観音像を拝観できたらと・・・。叶わぬことと思いながら、道成寺物語を〆させていただきます。

 

 

 

 

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熊野詣 PART3 --日本遺産の町 湯浅――

2024-05-16 17:12:15 | 旅行

湯浅の町といってもピンときません。場所のは和歌山市から南下して有田川を越した先にあります。もう少しイメージを膨らませるために『熊野古道』(小山靖憲著 岩波新書)を参照して、建仁元年(1201)の後鳥羽上皇第四回目の熊野参詣の足取りを辿ってみましょう。(後鳥羽院熊野御幸記)この参詣時には『明月記』を書いた藤原定家も随行していますので、参詣途中の宿泊地で頻繁に和歌会が開かれています。この10月5日に京都の鳥羽を出発した参詣記の行程は次の通りです。

まずは紀伊路。5日 鳥羽~天王寺(泊) 6日 阿倍野王子~平松王子(泊) 7日 井口王子~厩戸王子(和歌会・泊) 8日 信達一之瀬王子~藤代宿(泊)※現和歌山市付近 9日 藤代王子~湯浅宿(和歌会・泊) 10日 井関王子~重輔庄(泊) 11日 塩屋王子~切部王子(和歌会・泊)※現御坊市付近 12日 切部中山王子~出立王子(泊)※現田辺市付近 13日 秋津王子~滝尻王子(和歌会・山中泊)いよいよ中辺路に入ります。 14日 重點王子~湯河宿(泊)※現ひすいの湯付近 15日 湯河王子~発心門王子(泊)※国道311から離れ発心門という場所があります。 16日 内水飲王子~本宮(和歌会)※京都を発って12日目にやっと本宮に着きました。 17日 本宮(泊) 18日 本宮~新宮(和歌会・泊)※本宮からは熊野川下り。 19日 新宮~那智(和歌会・泊) 20日 那智~雲取・紫金峰~本宮※熊野川でなく山道で本宮に戻る。 21日 本宮~近露(泊) 22日 近露~磐代(泊) 23日 小松原~湯浅(泊) 24日 蕪坂~信達宿(泊) 25日 大鳥居~山崎(泊) 26日 鳥羽~帰京 --湯浅の宿は京都を発って5泊目。まだまだ序盤ですが、少し熊野詣の旅にも慣れてきたころかと思われます。

さてツアーでの湯浅は、日本遺産でもある重要伝統的建造物保存地区散策がメインです。この湯浅は醤油醸造の発祥地で有名であり、天保十二年(1841)創業の角長という醬油屋さんと金山寺味噌の太田久助吟製の二つの店で醤油と名物金山寺味噌を買い求めました。旅の楽しみは地元の名産品を土産で持って帰ることですね。この金山寺味噌を毎日少しづつなめて、都度、旅の思い出に浸っています。

そしてもう一つ忘れていけないのが、湯浅は高山寺の中興開祖である明恵上人の出生地であることです。湯浅の海岸から有田川を遡った金屋という地の出身でした。『明恵上人伝記』(平泉洸全訳注 講談社学術文庫)によりますと、明恵上人の名は高辨といいますが、母親は湯浅宗重の娘。そして湯浅宗重は平治の乱のときに平清盛を加勢したことで知られています。承久の乱のときに朝廷方の敗残兵、婦女子を匿った明恵上人ですが、これも因縁でしょうか。今回のツアーではゆかりの地は訪ねませんでしたが、明恵上人が育った地に足を踏み入れただけでも大満足でした。

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熊野詣 PART2 --和歌の霊地 玉津島神社--

2024-05-13 19:13:29 | 旅行

「わかの浦に 潮満ちくれば 潟をなみ 芦辺をさして 鶴鳴きわたる」万葉集にある歌(巻六919)で、山部赤人がこの和歌の浦で詠んだ歌といわれ、『万葉秀歌』(斎藤茂吉著)にも選ばれています。この歌をみて真っ先に思い出したのが高市黒人作の「桜田へ 鶴鳴きわたる 年魚市潟(あゆちがた) 潮干にけらし 鶴鳴きわたる」でした。この歌は私の故郷の歌で万葉集の中でも一番好きな歌です。『万葉秀歌』にも山部赤人の歌と比較されていますので、我が意を得たり。ちょっと嬉しくなりました。これは余談でした。

さてこの玉津島神社は、日本遺産「絶景の宝庫 和歌の浦」に登録されています。その案内板には、神亀元年(724)、聖武天皇は紀伊国を訪れた時、干潟に向かって連なる玉津島山のながめに感動して、この景観を守るように命じた。平安時代以降、玉津島神社に和歌の神・衣通姫(そとおりひめ)がまつられ、多くの和歌が奉納された。社殿は、関ヶ原の戦い後に入国した浅井幸長が慶長十一年(1606)に再興、その後に紀州藩初代藩主・徳川頼宣が整備したと書いてありました。さらに玉津島神社のHPをみますと、豊臣秀吉も紀州を平定した時に和歌の浦を遊覧して玉津島を参詣しています。そして「打出て 玉津島よりなかむれは みとり立そふ 布引の松」と詠みました。貴族や知識階級が憧れ続けた和歌の浦・玉津島を訪れて和歌を詠むことで、自分の偉大さを公家たちに納得させようとしました。また「和歌山」という地名は、このとき秀吉が名付けたと伝わっており、明治に和歌山県になったとすれば、クールな話かと思います。

今回のツアーでは、地元の女性の語り部の方に案内いただきました。最初は安産の神様である鹽竃神社、そして玉津島神社です。玉津島神社は前述した通り、和歌が有名な神社であり、山部赤人とか小野小町などの話をされていました。見どころは奠供山(てんぐやま)です。山頂に登れば和歌の浦が一望できる景勝地。古くは聖武天皇、近くは夏目漱石が我が国初のエレベーターに乗ったという話が『行人』に書かれているとのことです。語り部の方は、ガイドになって2年目ということですが、和歌をこよなく愛し、地元愛が強く、この地が日本遺産に登録されたことを誇りに思っており、ほとんどの和歌をそらんじて話されていました。同業の身として興味をもって聞いていたのですが、「好きこそものの上手なり」という格言の通り、和歌への愛、地元愛をもって話される方の話は経験が浅くても、聞く人にとって心地よく感じられました。最近筆者の地元でも日本遺産の紹介に力を入れていますが、オーバーツーリズムは公害だなんて新聞に書かれているようでは、わざわざ訪ねてくれる観光客の方に失礼ではないかと、和歌の浦の語り部の方をみてつくづく反省しているところです。

 

 

 

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熊野詣 PART1 --和歌山市内の雑賀崎--

2024-05-12 21:01:29 | 旅行

チャンスがあれば行きたかった熊野詣でが4月25日(木)~27日(土)にかけて遂に実現しました。鎌倉と京都の違いはあるにしても、後白河上皇は33度、後鳥羽上皇は29度、待賢門院は9度、北条政子は2度上京した際にかかさず熊野詣に行っています。今のように便利な交通手段はなく、徒歩と船旅で京都から20日以上かけて熊野三山を巡りました。天皇は京都から離れられませんので、譲位して上皇になってからの旅行です。まだ元気なうちに譲位する目的の一つにこの熊野詣があったともいわれています。決して楽な行程ではないのにもかかわらず、彼らを熊野詣に駆り立てた熊野三山のご利益、魅力はなんなのか?百聞は一見に如かず。やはり自分の目で確かめるしかありませんでした。

今回は新横浜駅発7時39分ののぞみ109号に乗車し、新大阪駅に9時48分に着きました。そこからバスの旅です。紀伊半島の西側を巡るのははじめてで見るものすべてが新鮮です。特に関空の近くを通った時には大人気なくちょっと声が大きくなりました。やはり老化している脳細胞にとり、たまにはこういう刺激が必要です。

今日最初の訪問先は雑賀崎。どこかで聞いたような名前ですね。実は1年前の4月15日にこの雑賀崎漁港である大事件がありました。私はすっかり忘れていましたが、衆院補欠選挙の応援で現地入りしていた岸田総理大臣に爆発物が投げ込まれたのがこの場所でした。日本遺産にもなっている静かな風光明媚なところですが、こんな事件で有名になるとは思わなかったでしょうね。まさかツアーで事件の現場を案内するわけもなく、ここは日本のアマルフィ海岸として有名になった景勝地です。和歌山市のHPの情報ですが、令和4年7月に放送された『世界一受けたい授業』というTV番組でAIによる世界遺産そっくり度ランキングで1位になったようです。アマルフィ海岸は映画のなかで見たことがありますが、正直ちょっと無理があるかなと・・・。日本のアマルフィ海岸なんてこじつけなくても十分に見ごたえのある景勝地でした。これもHP情報ですが、万葉集に「紀伊国の 雑賀の浦に出て見れば 海人の燈火 波間に見ゆ」と歌われています。この場所は、太平洋から大阪湾への入口、加太の瀬戸とか紀淡海峡(友ヶ島水道)に近く、潮の流れの激しいところでしたので、古くから潮待ちの船が多く係留されていたのではないかと思われます。

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