硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

認知症とは・・・。

2015-11-01 19:45:52 | 日記
宮崎県で起こった大きな交通事故のドライバーが認知症を患った高齢者だったことを新聞記事で知りました。その時、何か述べておきたいという気持ちが起こりましたが、介護現場で働いている者として、感想を述べる事にためらいを感じたのです。
それは、思ったことをストレートに述べれば誰かを傷つけることになるかもしれないし、生きる希望を奪うことになると思うからなのですが、すこしでも認知症と言う症状が断片的でも感じていただければと思い、述べておこうと思い立ちました。

「認知症」僕はこの言葉が嫌いです。会議や報告等で「認知症」という言葉を使う時、かならず胸がチクリと痛むからです。でも、この言葉を用いなければ説明できない事もあるので、使用しています。まず、そこを踏まえてお話してみますね。

認知症と言ってもその症状は様々です。身なりもきちんとしていて会話できる人もいれば、身なりを整えられず言語もまったく使用出来ない人もいます。

後者は「先祖返り」を起こしていて、「赤ちゃん」によく似た行動をとるので見た目ではっきりと分かりますが、そこに至るまでには必ずその過程があります。
その過程では多くの家族が苦悩します。育ててくれた両親が「子供」になり「赤ちゃん」になるのですから、その生理的事象を飲み込むことが出来ません。

また、親はいつまでも親なので「親だから」という認識を手放すことが出来ません。しかし、これは仕方のない事だと思います。それが人情だと思うからです。
でも、それが運命でもあるので、辛い事ですが本人もその子供たちも四苦八苦しなければならなくなります。

その四苦八苦を少しでも軽減するために医療機関や社会福祉があるのですが・・・。今日はその話は置いておきます。

さて、認知症が進行する上でもっとも危険なのは「今までできていたことが徐々にできなくなってゆくという事」なのですが、これがとても微細なのですね。
例えば、文字が書けなかったり、数字が読めなくなっていっても、お喋りが出来たり、箸をもってご飯を食べることが出来たり、トイレに行けたりします。バスや電車にも乗れてしまいます。でも、突然言葉が出てこなくなったり、今自身がいる場所が分からなかったり、行き先を忘れてしまったり、切符を買えても目的地で降りれなくなる場合があります。また、トイレの水を流せなくなったりします。そして微細なのが、洗濯機を使えても洗剤を入れ無くなったり、掃除機をかけることはできてもスイッチを入れる動作が分からなくなるのです。

日常生活の行動として身体に記憶されていることは出来てしまうのですが、その小さな工程が分からなくなるのですね。

自動車も然りです。認知症であっても、初期段階では日常生活に自動車を運転するという動作を身体的に覚えていれば、自動車を走らせることは可能なのです。しかし、道路交通法に則り、自動車を運転する事が困難なのです。そして、自動車運転とは社会に出て活動するわけですから、「掃除機のスイッチを押すことを忘れる」ことよりもリスクが高いのです。

しかし、認知症の人は「自身が認知症であるという事を認めたくない傾向が強い」ようなので、「あなたは認知症ですから運転できませんよ」と言っても、プライドが邪魔して自身の生理的機能の減退を認めません。また、免許証が失効されても、自動車があれば「免許がない」事を忘れてしまっているのですから、運転してしまいます。

また、車が突然無くなれば、認知症の初期症状には物に固執する傾向があるので「盗まれた」と大騒ぎする可能性がとても高いのです。

どちらもいきなり取り上げられては、欲望を奪われるのですから、あらゆる手段を用いて充足しようとするのは人の心理です。

そこで、僕が思いつく方法として、まず車のバッテリーを使えない状態のものに交換するなど、「車が動かない状況を意図的につくっておき」連絡手段がつく車屋さんにも「免許が失効されている」事を知らせておきます。
そして、修理を依頼されても「もう修理できないよ」と告げてもらるように取り付けておきます。そこで新車購入を欲する事があるかもしれませんが、その時点ではおそらく書類が整えられないので、新車購入は無理であろうと思われます。また、独居である人ならば、失効された時点で免許センターから住所近辺の警察に連絡し、地域住民に協力を仰ぎ、車屋さんを通じて先に手を打っておき、「自動車を運転していたことを忘れる」まで、精神の安定を図ることが、責める事の出来ない交通事故を未然に防ぐ方法なのかなと考えます。

高齢者の増加に伴い、あのような事故は、これからもっと増えてゆくのかもしれません。こちらがどれだけ気を付けていても、向こうからぶつかってくるのですから、防ぎようがありません。自動運転車両の普及もこれからですので、機械にも頼れません。

「となりのトトロ 五月物語」を描いてゆく過程で少しだけ触れた、モータリゼーションというものは夢や希望に満ちたものであったようですが、数年後にはこのような暗くて大きな口が開いていたとは誰も思いつかなかったのでしょうか。

いや・・・・・・。盛者必衰の理とはこういう事なのかもしれませんね。