硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

その事件の先にあるもの

2016-09-28 21:04:22 | 日記
点滴への異物混入による殺人事件の報道を見て少し考える。

誰がどんな目的でこのような事をしたのかは分からないし、理解しがたい。
しかし、高齢者が病院で亡くなることが当たり前になってきた世というのは、本当に幸福なのでしょうか。人は人生の終末において、医療行為を受けながらベッドの上で延命し続けられなければならない状況を、喜んで受け入れられるものなのでしょうか。
医療技術が発達したことは、病に苦しんでいる人たちやその家族にとっても喜ばしい事であり、年齢が若ければ若いほど、本人や家族の喜びは大きいものです。

しかし、身体が老化し自身の力で食べる事や排せつする事等、生きる為の最低限の動作が出来なくなった時でも、医療技術での延命は上記で述べた例と同様な喜びを本人や家族にもたらすことが出来るでしょうか。疾患が完治し、身心が若返るならば、同じような喜びを得る事も出来るかもしれませんが、今の技術では不可能です。

では、人の死と言うものは、どうあれば幸福と呼べるものになるのでしょう。それとも死は幸福をもたらさないものなのでしょうか。
人の死が幸福をもたらさないというのであれば、人は死ねなくなってしまいますが、差別や格差、いじめや貧困がなくならない社会で、不老不死を得たとして、果たして幸福と呼べるものなのでしょうか。
しかし、この事件を肯定するつもりはありません。でも、現在、看取る側の人達が年老いて寝たきりになった時、看取られている人々と同じように日々を過ごすことを受け入れられるでしょうか。

人体の構造上、生理的機能が不可逆的に減退してゆくことは止められないので、人はいつか死に至らなければなりません。その時に死を迎える場所が公的機関によって担保されなければ、残された者たちの都合が悪くなるという状況を、今から社会的に変換してゆかなければ、偏った個人的な価値や正義感によって、同じような事件が繰り返される可能性が高いような気がするのです。