幼いの頃の私は、本当に物欲のない子どもだった。
おもちゃをねだった記憶もない。
誕生日に何が欲しい?と聞かれた記憶もほぼないが、クリスマスに一度、そんなようなことを聞かれて、ナイチンゲールの伝記(子ども向けの)を買ってもらった。
別にナイチンゲールに興味があったわけではなく、何でもよくて、思いつきでそうなっただけだった。
お年玉も、あっという間に使ってしまうお姉ちゃんに比べて、貯まるばかりで、結局どうなったのか覚えていない。
短大時代、初めて父にねだったのが、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(何巻にもわたっていて高価だった)だったが、結局、読み進めることができずに終わった。
何だろう、なんとなく、ぼーっとした、欲のない子だった。
その私が買い物依存症になると、誰が想像できただろう。
ここへきて、経済的に限界が来た。
むしろ、遅すぎる「底つき」と言っていい。
わかっていた、どこかで、こうなることは。
それでも、買い物がやめられなかった。
1週間ほど前に、息子と何時間も、夜中まで(明け方まで、か)話をした。
お父さん(夫)がいなくなって、いろんなところがガタガタと壊れ始めて、生活がどんどん崩れてきた、でも、私たち(私も息子も)、それを見ないふりして来てしまったよね、と話した。
お父さんの存在は、私たちの支えだった。
それは、思うよりずっとずっと大きなものだった。
それがある日、あっけなく失われた。
悲しくないはずがない。
寂しくないはずがない。
でも、私たち、現実を受け止められないで来てしまった。
お父さん? え、いなくても全然平気さ! 全然大丈夫さ。
そう思おうと、無意識のうちに、してきたんだ。
息子と話した。
私たち、お父さんの抜けた穴を、お金を使うことで埋めようとしてたよね、と。
そんなことで埋まらないことがわからないはずもないのに。
何もかもに気づかないふりをしながら。
モノを買っても、いくら買っても、何の解決にもならない。
だって、欲しいのは、それじゃない。
買っても買っても、満たされるはずがない。
お金がなくなって、一度は、不動産を売却してしのいだ。
お金がポンと入ってくれば、ことは解決すると、なぜ思えたのだろう。
どこかからお金が降ってくればいいのに、と思っていた。
でも、違うんだ。
私たち、多分、現実と向き合う時に来ている。
お金がたくさんあれば解決する、という問題ではないのだ。
自分の病的な浪費に、気づいていた。
薄々、感じていた。
このままでは、湯水のようにお金を使い、永遠に現実から逃げ続けることになってしまう。
寂しさを寂しさとして、悲しさを悲しさとして、感じなければ、先へは進めない。
自分の足で立たないと。
そして歩いていかないと。
ただ、そう思うに至ったのは私であり、運命共同体の息子には、話はしっかりしたつもりだけれど、底つきのタイミングとしてどうだったのか、そこに責任を感じないではない。
船長は私だからね。
まぁ、暗礁に乗り上げたわけだから。
お金がないことは、恥ではない。
そう思う。
でも、代償行為としての浪費は、恥、とは言えないかもしれない(必要な通り道だったかもしれない)けど、卒業しなくては。
卒業できる、はずだから。
その時が、来ている気がする。
おもちゃをねだった記憶もない。
誕生日に何が欲しい?と聞かれた記憶もほぼないが、クリスマスに一度、そんなようなことを聞かれて、ナイチンゲールの伝記(子ども向けの)を買ってもらった。
別にナイチンゲールに興味があったわけではなく、何でもよくて、思いつきでそうなっただけだった。
お年玉も、あっという間に使ってしまうお姉ちゃんに比べて、貯まるばかりで、結局どうなったのか覚えていない。
短大時代、初めて父にねだったのが、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(何巻にもわたっていて高価だった)だったが、結局、読み進めることができずに終わった。
何だろう、なんとなく、ぼーっとした、欲のない子だった。
その私が買い物依存症になると、誰が想像できただろう。
ここへきて、経済的に限界が来た。
むしろ、遅すぎる「底つき」と言っていい。
わかっていた、どこかで、こうなることは。
それでも、買い物がやめられなかった。
1週間ほど前に、息子と何時間も、夜中まで(明け方まで、か)話をした。
お父さん(夫)がいなくなって、いろんなところがガタガタと壊れ始めて、生活がどんどん崩れてきた、でも、私たち(私も息子も)、それを見ないふりして来てしまったよね、と話した。
お父さんの存在は、私たちの支えだった。
それは、思うよりずっとずっと大きなものだった。
それがある日、あっけなく失われた。
悲しくないはずがない。
寂しくないはずがない。
でも、私たち、現実を受け止められないで来てしまった。
お父さん? え、いなくても全然平気さ! 全然大丈夫さ。
そう思おうと、無意識のうちに、してきたんだ。
息子と話した。
私たち、お父さんの抜けた穴を、お金を使うことで埋めようとしてたよね、と。
そんなことで埋まらないことがわからないはずもないのに。
何もかもに気づかないふりをしながら。
モノを買っても、いくら買っても、何の解決にもならない。
だって、欲しいのは、それじゃない。
買っても買っても、満たされるはずがない。
お金がなくなって、一度は、不動産を売却してしのいだ。
お金がポンと入ってくれば、ことは解決すると、なぜ思えたのだろう。
どこかからお金が降ってくればいいのに、と思っていた。
でも、違うんだ。
私たち、多分、現実と向き合う時に来ている。
お金がたくさんあれば解決する、という問題ではないのだ。
自分の病的な浪費に、気づいていた。
薄々、感じていた。
このままでは、湯水のようにお金を使い、永遠に現実から逃げ続けることになってしまう。
寂しさを寂しさとして、悲しさを悲しさとして、感じなければ、先へは進めない。
自分の足で立たないと。
そして歩いていかないと。
ただ、そう思うに至ったのは私であり、運命共同体の息子には、話はしっかりしたつもりだけれど、底つきのタイミングとしてどうだったのか、そこに責任を感じないではない。
船長は私だからね。
まぁ、暗礁に乗り上げたわけだから。
お金がないことは、恥ではない。
そう思う。
でも、代償行為としての浪費は、恥、とは言えないかもしれない(必要な通り道だったかもしれない)けど、卒業しなくては。
卒業できる、はずだから。
その時が、来ている気がする。