先月の終わりに、いつものクリニックで解離を起こしてから、なんとなくそれを引きずって、元気が出ないでいる。
解離(乖離?)というと、昔で言う「多重人格」のイメージがあるかもしれないけど、重症だとそういう症状が出る人もいるけど、私の場合は明確な人格の交代があるわけではない(と思う)。
ただ、目の前の現実がキャパを超えると、意識を失う、という症状が、若い頃はしばしば、その後もたまに、あった。
でも、その先月の終わりの解離は、意識を失って倒れるという、いつものパターンと違っていた。
記憶は飛び飛びだけど、私は倒れてはいなかった。
小さい子みたいになっていた、と主治医の先生は言っていた。
そのあたりを、私は覚えていない。
がーん。
なんだそれ。
とにかく、無理をしないように、と言ってもらい、薬を足してもらって帰った。
倒れる時は、自分でわかる。
あ、ダメだ、と思う。
でも、今回のは想定外で。
自分が想定外の状態に陥った、ということもショックだった。
そして、ほぼ寛解と勝手に思っていた自分が、まだまだなんだということに、打ちのめされた。
先週、クリニックに行った時、そのことについて話した。
解離というものについてまるで知らないわけではなかったけど、後天的な要因で起こりやすい、そしてやはり虐待を受けて育った人に起こりやすい、ということを先生の口から聞くことができた。
やっぱりなぁ、と思った。
わかっていた。
確認したかっただけなのだ。
子ども時代のことを、親を、私は許しているつもりだった。
でも、先生の「被害者が加害者を許せるはずがないでしょう。それはもう、宗教の話だ」という言葉を聞いて、親を許さなくていいのか、と思って救われる自分がいたのも確か。
人を憎んだり恨んだりして生きていくのは醜い、と思ってきた。
心をきれいにしておきたかった。
優しくない自分は自分じゃない、認めたくないと思っていた。
親を恨んでいるのかな、私はまだ。
そういう、汚いと思ってきた感情を排除して無いものとしてきたから、解離が起きるのかな。
きれいな世界に住んでいたい。
私が、きれいなものやかわいいものをひたすら追い求めたり集めたりしているのは、本当は、現実から目を逸らしたいからなのかもしれない。
汚い自分を許すか。
どこまでもそれを排除したい自分を許すか。
よくわからない。
楽をして生きていきましょう、と先生は言ってくれたけど、どうするのが楽なのか、わからない。
解離(乖離?)というと、昔で言う「多重人格」のイメージがあるかもしれないけど、重症だとそういう症状が出る人もいるけど、私の場合は明確な人格の交代があるわけではない(と思う)。
ただ、目の前の現実がキャパを超えると、意識を失う、という症状が、若い頃はしばしば、その後もたまに、あった。
でも、その先月の終わりの解離は、意識を失って倒れるという、いつものパターンと違っていた。
記憶は飛び飛びだけど、私は倒れてはいなかった。
小さい子みたいになっていた、と主治医の先生は言っていた。
そのあたりを、私は覚えていない。
がーん。
なんだそれ。
とにかく、無理をしないように、と言ってもらい、薬を足してもらって帰った。
倒れる時は、自分でわかる。
あ、ダメだ、と思う。
でも、今回のは想定外で。
自分が想定外の状態に陥った、ということもショックだった。
そして、ほぼ寛解と勝手に思っていた自分が、まだまだなんだということに、打ちのめされた。
先週、クリニックに行った時、そのことについて話した。
解離というものについてまるで知らないわけではなかったけど、後天的な要因で起こりやすい、そしてやはり虐待を受けて育った人に起こりやすい、ということを先生の口から聞くことができた。
やっぱりなぁ、と思った。
わかっていた。
確認したかっただけなのだ。
子ども時代のことを、親を、私は許しているつもりだった。
でも、先生の「被害者が加害者を許せるはずがないでしょう。それはもう、宗教の話だ」という言葉を聞いて、親を許さなくていいのか、と思って救われる自分がいたのも確か。
人を憎んだり恨んだりして生きていくのは醜い、と思ってきた。
心をきれいにしておきたかった。
優しくない自分は自分じゃない、認めたくないと思っていた。
親を恨んでいるのかな、私はまだ。
そういう、汚いと思ってきた感情を排除して無いものとしてきたから、解離が起きるのかな。
きれいな世界に住んでいたい。
私が、きれいなものやかわいいものをひたすら追い求めたり集めたりしているのは、本当は、現実から目を逸らしたいからなのかもしれない。
汚い自分を許すか。
どこまでもそれを排除したい自分を許すか。
よくわからない。
楽をして生きていきましょう、と先生は言ってくれたけど、どうするのが楽なのか、わからない。
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