鬼さんノートを書くにあたって、私には、漠然とした不安感がありました。それは、古典の「鬼」が、多様な意味合いを含み過ぎて、そのうち、昨今のSNSの誹謗中傷に見られるような、現代人の通俗的な心象とだけわかりやすく結びつくのではなかろうかという不安でした。だとしたら、底の浅いものしか書けません。
鬼さんイコール悪意とは限らない。そこが、難しいのだ。古典の「鬼」は、もっと広いし。それでも、中世の始まりに、定家が「鬼を拉ぐ」体ととらえたところの「鬼」が、精霊のような柔弱で悪意の薄いものとは考えにくいだろう。「拉ぐ」という言葉の強さからいっても。
こんなところから定家十体に戻れる。どこでもドアが開いたように。やはり言葉は、その人の血管を通ってこそ、運ばれる。しかも、おのずから、そうであるしかないところへと運ばれるのです。
しょうもない辻褄合わせは、いらないのだ!
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鬼さんイコール悪意とは限らない。そこが、難しいのだ。古典の「鬼」は、もっと広いし。それでも、中世の始まりに、定家が「鬼を拉ぐ」体ととらえたところの「鬼」が、精霊のような柔弱で悪意の薄いものとは考えにくいだろう。「拉ぐ」という言葉の強さからいっても。
こんなところから定家十体に戻れる。どこでもドアが開いたように。やはり言葉は、その人の血管を通ってこそ、運ばれる。しかも、おのずから、そうであるしかないところへと運ばれるのです。
しょうもない辻褄合わせは、いらないのだ!
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