目指せ華麗な七十代!

旧mandalaflowerからタイトルを替えました。今から始まる七十代をより華麗に生きる覚悟です。

インド一人旅の思い出・ルンギーという名の腰巻

2019-02-10 | お題

カルカッタで見かけた男性はオフィスで働く人や制服は別ですが、

ほとんど皆腰巻一丁で暮らしています。

腰巻が普通です。

ルンギーって言ってました。

一枚の布です。

それを半分に折って昼は膝上丈に、夜になると足首までのロング腰巻に

モデルチェンジします。


サイクルリキシャのドライバーも人力車の車夫も皆このスタイルです。

先に書いた駅の赤帽、

あの男たちももちろん赤いルンギーを腰に巻いていました。

暑いからそれで十分なんでしょうね。

その下に下着は履いていないと思いますよ。


初めて見たときも

スカートというイメージにはつながりませんでした。

腰巻そのものです。


仕事の時は半分丈で

あらたまった時にはロング丈、のような約束もあるようです。



インドで私が最初に買い物したのもこのルンギーでした。

これは大変便利な布なんです。

この布一枚あればそれはスカート替わりにもなり、ワンピースにもなり

上掛けにもタオル替わりにもショールにも風呂敷にもなるのです。

マルチに活躍してくれる一枚布の使い方を

インドで学びました。

それ以来出かける時には必ずというように一枚の布を持参するようになりました。

それは今でも続いています。



そういえばキャメルに乗って砂漠を歩いた時には

ターバンがわりに頭に巻いて暑さをしのいだものでした。



初めての寝台列車に乗り込もうというその時にも、



カルカッタのニューマーケットで買ったルンギーが軽く巻きつけられていました。



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インド一人旅の思い出・物乞い

2019-02-10 | お題

インドの鉄道で忘れられないのことの一つは物乞いです。

インドには多くの物乞いがいました。

駅だけでなく街の中にも寺院の周りにも。。。

人が集まりそうなところにはどこでもです。


私は戦後八年も経って生まれているのでそれまで物乞いの存在を

話の中で知るだけでした。

そんな私が物乞いから手を差し出された時にはどうにも切ない気持ちになりました。

考えてみればそれも喜捨の社会だからなのでした。

だってそうでしょ。

インドって国は乞えばもらえる国なんですもの。

だから人々は誰でも

自分より持ってそうな人がいれば乞うのです。


ところが我が国もしくは我が周辺では

乞うことはある種の恥というのが一般的だったような気がします。

人に頼らず自分でもやることが美徳。

乞食になりさがるなんて以ての外。とプライドをむき出しにするのがよろしいようで

そうでないと意気地なしなどと呼べれてしまうのです。

乞食は成り下がり者で、決してなるべき者ではない

というのが日本での待遇でしょう。

なのにインドにはどこにでも物乞いがいたのです。



駅にてはホームに滑り込む列車に子供の物乞いが走りよります。

車窓にいると、

目の前に薄汚れた髪の毛、着の身着のままの破れたドレスの女の子が立ち止まります。

手には裸の幼子を抱いていて二人ともやせ細っています。

すぼめた指先を口元につけるジェスチャーをして

何か食べ物をくれとねだります。

見ると本当に美しい顔立ちをした美少女です。

インドの人は彫りの深い美しい顔立ちをしていますよね。

彫像のような顔の人が多いのです。



物乞いの中にも、この子を日本に連れて帰ったら

どんなに美しいアイドルになることだろう、と

そんな馬鹿げたことを考えてしまうような美形が在りました。


でもたいていの場合その目は悲しそうに何か訴えています。

そのことに胸が痛みました。



私は決して豊かな身分ではありません。

金持ちでもありません。

何らかの労働をして、給料を貯めて

興味のあるこの国へやってきた一介の旅人です。

それが貧しい人に乞われる立場となっているのです。



私は持っていたバナナを彼女に渡します。

すると彼女はこれはベービーのため、私のためにもう一つと乞うのです。

二つのバナナを持って去っていった彼女はきっとまた別の窓に立つのでしょう。


私はこうしてその美しい物乞いの少女のおかげで、

自分にできる限りのバクシーシ『喜捨』を経験させてもらうことになりました。


喜捨という教えはヒンズー教の中にあるようです。


喜捨とは持っているものが持たないものに喜んで分け与えるという意味だと聞いたことがあります。

人々は徳を積むことで良き来世を迎えたいと願っています。

徳を積みたい人にとって

徳を積ませてくれる相手はとてもありがたい存在なのであります。

この教えはとても合理的じゃないでしょうか。



数学好きで頭脳明晰な人の多いインド人が考えそうな発想ですよね。



徳を積むには積ませてくれる相手が必要だ、

乞うものがあればこそ差し出すという徳が積めるのものなのです。

人々がそんな教えの中に生きていることが素晴らしいものに思えます。





それを思うと、乞食を乞食と蔑み、馬鹿にするだけの世の中は

ギスギスな嫌な世の中なんじゃないでしょうか。


それは金持ちも乞食も同じ輪の上の存在ってことなんです。

輪廻のその輪に誰もが絡まって生きているってことでしょう。

金持ちが偉い、乞食は低いってことではないのです。

今は金持ちでも来世はわかりません。

だから人間としてよりよく生きようと心がけるのです。


徳を積むといいことがあるとご利益を約束すると、

世の中が一応平和の方向に向かうのかもしれません。

それが行き過ぎてしまわなければね。




物乞いはインドの悲惨な面であり負の遺産的になっているのかと思います。

それでも私は記憶に残る印象的な美しい物乞いの少女から

確かに何かを受け取りました。

ものを施すことの喜びと悲しみも経験できました。


施しの習慣を悪事に利用する動きもあり、

一概には言えないことですのできっと今も

物乞いの問題は続いているのではないでしょうか。

物乞い=貧困であることに間違いはないのです。









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インド一人旅の思い出・赤帽

2019-02-10 | お題
ハスラー駅で初めて見たものに

赤帽の存在があります。

今世紀の初めには日本から赤帽のサービスは無くなったようですが、

三十八年前に既に私は赤帽を日本で見たことがありませんでした。

赤帽といえば今ではすっかり軽トラックの引越し屋さんの代名詞になっていますが、

昔は駅でお客のの荷物を列車まで運んでくれるサービス業だったのです。

ハスラー駅には大勢の赤帽がいました。

彼らはその名の通り、赤い布をターバンのように巻いていて、

着ているシャツも下布も赤く染めたものでした。

赤といってもいろいろですが、

なかなか渋い赤色でしたね。

屈強な男たちがホームのあちこちでたむろしている様子は

初めてみる私の目には少し脅威でした。

ポーターに荷物など渡したらその場でどこか遠くへ持ち去られてしまうのではないかと、

疑心暗鬼になっていたのです。

でも実はこのポーターは実に便利なサービスなのでした。

後になって何度もこの国の鉄道を使った経験から言うと

赤帽さんありがとうと言う気持ちです。


日本でも赤帽サービスを再開してくれたいいのにと思います。

赤帽に荷物を頼むと

タクシーを降りたその場からあなたに変わって重い荷物を列車まで運んでくれます。

列車の名前や車両番号、指定座席を伝えれば

その席まで荷物を運んでくれるのです。

一日中、それどころか年がら年中そこで過ごしている彼らは

列車のことをよく知っているのです。

何番線にどこ行きのどんな列車が来るのか、

どの列車が何処にいくのか、

とにかくよく知っているのです。

そうでなければキョロキョロとあまり得意でないアルファベットを見ながら

プラットホームを探したり、

自分の乗る車両がどのあたりに止まるのか車掌に聞いたり

その車掌を探したり、

全部自分でしなければなりません。

ま、初めはそれが当たり前と思っているのだから、

仕方がありません。

何事も経験を通して学ぶと言う金言がここでも当てはまる次第です。



私がある種感心したのは、

インド人のお金持ちの旅人は

赤帽に荷物を持たせその後を余裕綽々の風体で

お腹を突き出して歩いていくことです。

人に荷物を持たせてあんなにも堂々と歩けない、と

思っていたのです。

でもそれ、商売ですもの。

赤帽は荷物を担いで日々の糧を稼ぐのです。

仕事がなきゃ食うにも困るのです。

だから荷物を預けることは彼に善を与えることにつながるのです。

ところが若い私は

全く馬鹿なものでした。

彼を同等の人間と見て自分の苦を彼に背負わせることに罪悪感を感じるのです。

青いな、君。

自分がお金を払っていることを忘れているでしょ。

そのお金を稼ぐのに自分がないをしたのか知っているでしょう。

なのに罪悪感があったのです。

奇妙な正義感を持っていたと言わざるを得ませんね。

恥ずかしいです。







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インド一人旅の思い出・ハスラー駅

2019-02-10 | お題
インドに入国して以来五日目にして、ようやく自分の荷物を取り戻した私は

重さ十キロほどのリュックサックを背負って

ついに旅に出るべくカルカッタはハスラー鉄道駅へと向かったのでした。

初めてのインド鉄道の旅、それも人生初の夜行寝台列車です。

どんな列車なのか?

何が起こるのか?

無事目的地に着けるのか?

胸の高鳴るのを覚えています。

旅の間は常に期待と不安と緊張の時間です。

それがまた旅の楽しさになるのですから、

それが好きと言わざるを得ませんね。



インド鉄道に関してはガイドブックでも色々な注意事項が載っていましたので、

そういった忘れてはならない意識を再確認しながら

いよいよ私は巨大なハスラー駅の中に旅の一歩を踏み入れたのです。

鉄道はこれもイギリス時代の産物でした。

イギリスが開いた鉄道を独立後もそのまま使っています。


日本の線路より若干幅の広いレールですので

車両も日本の列車より大きいと思いました。



駅も東京駅より大きいと思います。


何せ当時でも五億六億の人が暮らしている大陸です。

その主要都市の中央駅です。


鉄道で移動する人も日本の数倍多いのでしょう。

駅は人でいっぱいでした。

見たことのない人の数です。

喧騒と混乱。

このエネルギーの渦の中で自分を見失わないでいられるだろうか?

一瞬そんな懸念を持ったような気もします。


チケットは宿泊宿の近くの旅行会社で手配して既に持っていました。

私は手にしている乗車券にあるプラットホームの番号を探して

慣れないリョックを背負って歩きました。

途中で色々な人が声をかけてきますが、

その時は応えもせずに一目散に歩きました。

リュックが重たくて、前のめりになって歩きながらも声をかけられるたびに

たすき掛けにしたショルダーバッグを握りしめました。

盗られたくなかったらです。

その頃のガイドブックには必ず駅や鉄道での盗難注意が載っていました。

インド=盗難注意、のような認識が当時の人々の念頭にあったのは確かです。


インドにいる間、一番気を使ったのはやはり盗難のことでした。

接待に盗られたくないと思っていましたよ。

危険に対して周囲に気を配る習慣はこの時に育ったのかもしれませんね。


一度どこかでうっかりとショルダーバッグを肩にかけずに体の横においてしまい、

ガイドブックで何か確認している隙に

ふと感じるものがあって

ふいと横を見ると

自分のバッグに誰かの手が伸びていました。

ちょっと怖くなった瞬間です。

すぐにバッグを引き戻して事なきを得ましたが

こういった経験は初めてだったので、

誰かが私を餌食を見初めて様子を伺っていたそのことに怖さを覚えました。


チヤホヤされて見られるのは嬉しいのに、

黙って餌食として観察されているのは気持ちの悪いものです。


よし今だ、と思って伸ばした手を私に見破られたので

盗人にしたらミッションは失敗ですよね。


私の方もさすがに無防備でそこにいたわけではないので

自分のカバンに伸びてくる手が何気に視界に入ったのです。


当時の私は、盗みが失敗したことを根に持って

何か仕返しをしてくるんじゃなかろうか?とそこまで考えてしまいました。

だって向こうは私の顔も見ていたはずだし。



とにかく一人ですし、初めてのことで結構心臓がばくばくした記憶があります。

けれども、荷物は無事だったし、もっともっと注意したほうがいいのだなって

経験を薬にして前へ進んだのです。


ガイドブックにはインド鉄道が日常的に遅延することの注意も書いてありました。

案の定、私の乗る予定の列車は時刻通りに発車しないことがわかり、

私はウェイティング・ルーム、つまり駅の待合室で時間を過ごすことになったというわけです。


入ってみると、その待合室はだだの広い空間でした。

作り付けの座席も何も一切ありません。

その広い空間に大勢の人が思い思いに過ごしているのです。


最初にドアを開けた時、

え?何にもないんだ、とそのことに驚きました。




故郷の小さな町の小さな鉄道駅、その待合にしつらえてある木製の長椅子を思い出し、

しばし懐かしさやその柔らかな美しさが心に浮かびました。

なんという違いでしょう。

それだけでなく

そこで電車を待つ大勢の人々の立ち居振る舞いも

想像を超えるほどの大違いなのでした。


そこには大勢の人が自分の乗る列車を待っていました。

まさに人種のるつぼ、と言える場所だったかもしれません。

インド人はもとより、旅をする若い欧米人、チベット人、商人風の人、薄汚れた大きな荷物を持った人、

真っ黒な衣装のモスリムの婦人、等々。

今までカルカッタの路上の片隅を見ただけの私は

これほど多岐に渡る人々を初めて見たかもしれせん。


私には圧巻でした。

色とりどりのサリーを体に巻きつけて

床に胡座をかいて弁当を食べるインド人家族の輪。

インドの人ってね、みんなで輪になっておしゃべりしながら弁当を食べるのが大好きみたいです。

どこでも見かける光景だとはその時はまだ知利もしない私でした。

その向こうでは

ベッドロールを広げてその上に寝ようとしている軍人らしき男性。

ベッドロールなるものの存在を見たのは

その時が初めてで、それ以後どこでもみかけたことがありません。

今でも使われているのでしょうか?

まさかそれはないでしょう。

ベッドロール。

きっとそれもイギリスの置き土産なのでしょう。

なかなか合理的でいいかもしれないです。



焦らさないで云いましょう。

それはね。

カバン兼ベッドなんです。

帆布のようは丈夫な生地でマットレスの外形を作り、

棉の代わりに自分の携帯品を入れる

それがベッドロールというものです。

一人のおじさんはそこから一枚のタオルを出して顔を拭きました。

そしてさっきまでカバンだったものを広げてその上に寝ようとしているのです。

運ぶ時は丸めて縫い付けてある紐で背負えるようになっていたり、

手持ちもできるように勘考してある優れものでした。


なかなか便利で合理的な代物だと思います。

持ち物が柔らかいものだけだった時代には有効だった代物でもあります。

今はダメですね。

ipadの上で寝たくない。

ですよね。


そこでは五体投地するチベット人も初めて見ました。


シーク教の男性はヒゲを切らないので

伸びたヒゲを丸めてほっぺたに押し付けてネットで落下を防いでいます。

シーク教のおじさんは殆どみんな、ほっぺにネットをかけています。



初めてそれを見て

どうしてそんな面倒なことをするのか

理解に苦しみました。

信仰のためにこうした儀礼を面倒と思わないのが宗教の力なんだと

今はそう思います。

インドの鉄道駅の待合室。

まさに坩堝のような場所でした。

私はそこで覚醒したのかもしれません。

えへ、んなわけないじゃろが。

と、それはさておき、

その場所で私は確かに実感しました。

世の中には

様々な人が居る。

皆、自分とは違う各々の自分を持って居るのだ、と。



結局列車は5時間遅れました。

その間私はじっくりとその場にいる人の人間観察を楽しんだといえましょう。













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思い出を思い出す

2019-02-10 | 日記
おはようございます。

今日は良いお天気になりそうですが気温は上がらないみたい。

ちょっとまた寒い日が続いています。

でもね北海道に比べたらなんてことないですよね。



ただいま朝食のパンを焼成中。

いつもはストーブの横において発酵させるのですが昨日は忘れてキッチンに置きっ放し。


朝見ても固いままでした。

どんなパンになるでしょう。一応応急処置は施しました。

焼く前にオーブンを温めてその中で再度発酵させたのです。



我が家のパンは私が十年以上前に起こした天然酵母を使って焼きます。

小麦粉と水でかけ繋いでいますが、低温でじっくり発酵さる方法が一番合ってます。

でも寒すぎるとやっぱり膨らみません。

幸いなことに家人が詰まったパンが好きなので失敗した時は

彼がほとんど食べてくれます。

固いパンは私はあんまり好きじゃない。

かといって日本の食パンのようにただやわらかければいいってもんじゃないけどね。




インドでの朝食は初めての旅ではコンチネンタルが多かったと思います。

コンチネンタルとは、パンとバターと卵のブレックファーストセットのようなもの。

卵はany styleでとメニューに書いてあります。

目玉焼きやスクランブルエッグ、半熟卵、固ゆで卵、希望のたまご料理を作ってくれるってことですよ。


イギリスの植民地だった時代の名残でしょうか。

その影響はインドの所々に観ることができ、

インドにいてイギリスを感じることも多いのです。


インド旅行の思い出話を書き始めたおかげで

忘れていた記憶が色々と蘇ってきます。










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