10月で美祢線の石灰石輸送の歴史が終わった。
そういやぁ、大分前に写真撮ったなぁと、ポジを見返してみた。
撮影は1996年3月。石灰石列車はチョットしか撮っていなかった。
ポジのコマ順に追っていこう。
このときは西鹿児島→博多を92Mに乗って北九州入り(したハズ)。
若戸大橋をバックに客レを撮影
門司港まで追っかけて、再度撮影
構内にはセメント列車が止まっていた。常備駅名が消された東北開発タキも撮っていた。
このあと、渡船で唐戸へ。更に山陰線で長門市へ行っている。
急行さんべも撮影。残念ながら型式写真は撮っていない。
このあと、美祢線のキハ120に揺られて・・・
南大嶺で支線へ乗り換え、大嶺へ。
キハ23車内は自分を入れて2人しか乗っていなかった。駅の裏手にはボタ丘が見えた。
ホームの低さと、構内の広さがこの線の歴史と栄華を物語っていた。
折り返しの時間まで近くを散策。昼下がり時間が止まった光景が広がる。
そういやぁ、大分前に写真撮ったなぁと、ポジを見返してみた。
撮影は1996年3月。石灰石列車はチョットしか撮っていなかった。
ポジのコマ順に追っていこう。
このときは西鹿児島→博多を92Mに乗って北九州入り(したハズ)。
若戸大橋をバックに客レを撮影
門司港まで追っかけて、再度撮影
構内にはセメント列車が止まっていた。常備駅名が消された東北開発タキも撮っていた。
このあと、渡船で唐戸へ。更に山陰線で長門市へ行っている。
急行さんべも撮影。残念ながら型式写真は撮っていない。
このあと、美祢線のキハ120に揺られて・・・
南大嶺で支線へ乗り換え、大嶺へ。
キハ23車内は自分を入れて2人しか乗っていなかった。駅の裏手にはボタ丘が見えた。
ホームの低さと、構内の広さがこの線の歴史と栄華を物語っていた。
折り返しの時間まで近くを散策。昼下がり時間が止まった光景が広がる。