美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

贋作はどのくらいあるのか

2015-08-10 13:00:08 | 西洋美術
メットの館長経験者はこんなことを言っている。

「わたしはメトロポリタン美術館に15年ほど在職し、そのあいだにあらゆる分野の美術品を5万点は調べたと思う。じつにその40パーセントが、偽物か、修復しすぎたものか、年代の特定をまちがえたせいで贋作同然に扱われても仕方がないようなものだった。その後、偽物が占める割合はさらに大きくなっているものと思われる。」

また私の身近なところでは、小川芋銭の作品について、小川芋銭研究センターの首席学芸員が『小川芋銭全作品集』(挿絵編)で近年こう書いている。

「芋銭は贋作の非常に多い画家でもある。市中に出回っている作品の七~八割は、真筆と認めがたいと囁かれているほどである。「小川芋銭研究センター」を立ち上げてから、多くの芋銭作品が持ち込まれたが、総てと言っても良いほど一顧に値しないものばかりで、気持ちの晴れ晴れする作品に巡り合う機会には恵まれなかった。」

大変な数である。ここまでの数値は私もちょっと予想できなかった。芋銭の贋作がこんなにも多いとは思わなかった。

もっとも、私の経験でも、たまたま見たネットオークション経由の、中村彝の真作と思われるものは、1点たりともなかった。

それらは、明白な贋作がすべてであり、持ち主には気の毒だが、一見しただけでそれと判断できるものばかりであった。

美術館では贋作をそれと知って展示することは、特別な場合以外はないが、知らずに展示してしまうことはあるだろう。

あるいは館内でもその作品についての扱いが明確でないものは、展示されてしまうことはあるだろう。

しかし、悲しいのは、自分では真贋が分からないのに、その美術館の慣習に従うだけで、学芸員が展示しない場合だ。

美術館に収蔵されている作品は、すべて真作と見做してよいはずであるが、実際には、館内において贋作の疑いがあって展示できない作品がある場合もある。

本来そうした作品がある場合は、館としての明確な見解を出しておくべきなのだが、噂や館内での言い伝えでそうなっていることもままあるようだ。触らぬ神に祟りなしのまま相当年数放置されている状態である。

そういう場合、やはり研究しなければならない。学芸員個人がそれぞれに心の中だけで疑念を抱いているだけではだめなのだ。

個人で心許ないなら、グループの研究という形をとって、紀要論文にまとめ上げ、どこまでが分かっており、どこからが分からないのか、または、どこが分からないのか、はっきりすべきだ。

私の経験では、長年展示されずに、あってなきがごとき扱いの作品があった。
しかし実際に調べてみると、なぜその作品が贋作扱いされてきたのか根拠が解らない、そういう作品であった。

例えば幾つかの版画は、すべてリトグラフとなっていた。その中には、明らかに凹版画であり、よく見ればドライポイントであることが分かるのに、リトグラフとされたまま、贋作扱いされていたものがあった。

これは贋作か真作か以前の問題で、最初から技法の識別がなされていなかったという例だ。

美術書で版画の技法について知っていても、実際には自分の眼で何も確かめることができないのなら、謙虚に無知のままでいた方がいい。

贋作と噂されていた作品には、確かに真作とは呼べないような作品もあったが、それ以前の問題もあったのだ。

しかし、一括寄贈や、一括購入などの作品の中には、贋作が混じっている場合も確かにあるかもしれない。

こうした場合、寄贈者や資金の提供者、もしくは上司の仕事に遠慮して、なかなか贋作が混じっている(いた)とは言えないことも、あるようだ。
それが館内の言い伝えという形で引き継がれていくのかも知れない。

しかし、館内でそれが共有されているだけでは不十分である。それは、単なる無責任体制に繋がるだけかもしれない。

もちろん美術品は値段があまりに高いから、真実がわかった場合の予想外の影響の大きさという心配も確かにあるにはあるだろう。

場合によっては、名誉毀損などの裁判に巻き込まれる恐れだってなしとはしないし、そこに良からぬ者が絡んでいたら、刑事事件にすら発展するかもしれない。

実際に現実の世界で、それは贋作です、と言うのには、大きな勇気が必要だ。

いや仲間内や陰で言うのはまだ容易かも知れない。
それを公然と文字にして表現するのが難しいのである。



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中村彝アトリエ内部写真と茨城県近代美術館蔵「静物」(大正8年作)

2015-08-07 21:45:58 | 中村彝
『芸術の無限感』(新装普及版)に載っている彝のアトリエ内部写真は、その写真の左辺部が実は少しトリミングされている。

それでそのトリミングされていない写真を見ると、写真の中に写っている、現在は茨城県近代美術館にある「静物」(大正8年作)のモティーフそのものが、描かれたテーブル(の脚)とともに、そのまま、ほぼ同じ構図で写真の中に写っていることに気づかされる。

だから、この写真を見ると、一見、似たような作品が2枚描かれたのかと思われるほどである。だがそうではなさそうだ。(下図)



彝は、この写真を撮るのに、わざわざこんな仕掛けをして撮らせたのか。

そうだとすると、「落合のアトリエ」も、わざわざ引っ張り出して、狭いテーブルに置いた可能性もあるやも知れぬ。そんな思いにも囚われる。

アトリエの内と外がこれで揃うからだ。
まあ、それにしては、この小さな作品の図柄を認めるのにちょっと骨が折れるが。

アトリエの壁に貼られた裸体像がルノワールでなく、ドガのパステル画であることは、下図により信じて貰えるだろう。確かプーシキン美術館にあるドガである。
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中村彝のアトリエ内部写真と横須賀美術館の「落合のアトリエ」

2015-08-07 12:58:49 | 中村彝
前にも論じた『芸術の無限感』掲載の彝アトリエの内部を撮った写真、そこに写っている小さな「弓なりになっている?板絵」について。(※ただし、支持体について、所蔵館はキャンバス・ボードと表記しています。)

この作品は、推量でなく、やはり、現在、横須賀美術館にある「落合のアトリエ」(下図)と断定したい。
これが今回第一に言いたいこと。


で、この作品の制作年は、同館では大正5年としているが、これは再調査が必要なのではないか。これが第二点。

この写真(下図)は、大正6年に撮られた可能性は極めて低く、大正7年11月16日以降、おそらくは大正8年以降に撮られたものと思われることは、先に論じたとおりだ。


そうすると、大正5年に描いた小さな作品を、この写真を撮るために、わざわざ狭いテーブルの上に置いたというのは、少し不自然な感じがする。

この写真に写っている作品は、やはり大正8年前後に、何らかの意味でまだ彝が手を入れていたものではないのか。

そう思って、写真を再び見ると、これは人によって意見が分かれるかもしれないが、この小さな作品の一部がまだ未完成に見えるようなところもないではない。

もし未完成な部分が他の人によっても認められるなら、この作品の制作年は大正5年から大正8年までのいずれかの時期に描かれていたものと考えた方がよいだろう。

それに、この作品は、平成27年7月5日のこのブログ記事でも明らかにしたように、目をよくよく凝らしてみると、画面右方底辺部に、制作年と署名が僅かに残っているような痕跡が明らかに確認されるのだ(下図)。


これは、ひょっとすると赤外線写真、あるいは紫外線写真によって、その消えそうな部分を明らかにできる可能性がある。

所蔵館にぜひとも再調査してほしい。

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安野光雅『旅の絵本V(スペイン編)』から「村の結婚式」

2015-08-05 21:53:57 | 日本美術
安野光雅の『旅の絵本』シリーズは昭和52年に始まった。第4巻はアメリカ編で、58年に刊行された。それ以後20年ほどの長い中断があって、平成15年にスペイン編が出た。その中に「村の結婚式」という場面がある。

確かに村の結婚式の様子が描かれている。

しかし、このシリーズには説明的な言葉というものが一切ない。すべての画像が、あたかも飛行機の離着陸時のような俯瞰的な視点からとらえられ、人間界の生活の様子が一見何気なく描き出されている。

安野の俯瞰的な構図は、日本画の伝統的な視点にもつながるもので、このシリーズでは、ちょうど絵巻物を絵本の形式で展開させたような感じになるが、絵本には普通にある文字による言葉がない。

その代り、氏の作品を観る場合、画像全体を眺めた後、細部を見て楽しんだり、作者が仕掛けた謎を発見したりする喜びがある。その喜びを完全に満喫したいというのが安野ファンだろう。

この作品も、細部を見ていくと、単に結婚式の場面や、お祝いの準備のモティーフばかりでなく、人間の生から死に至る「人生のサイクル」が暗示されているようにも見える。

例えば、めでたいこの場面に描かれなくてもよかった教会の右手の墓地のモティーフはもちろん死を暗示している。

さらに、この作品の極め付きは、画面中央下方部に描かれた、鍛冶屋のモティーフである。

鍛冶屋といってもただの鍛冶屋ではない。

ベラスケスだ、ベラスケスの描いたギリシャ神話に基づく鍛冶屋の場面が、この結婚式の絵の場面のなかに引用されている。

それはこんな場面だ。

太陽神のアポロンが、愛と美の女神ヴィーナスを妻としている美男ならざる火の神である夫ウルカヌスに、彼女と軍神マルスとの不貞を告げにきた。

鍛冶屋である火の神ウルカヌスが目を丸くして驚き、のけぞっている。
周りにいた鍛冶屋の仲間も、皆、一様に驚き、アポロンの方に眼を向けている。

そういう場面を、ベラスケスが描いた。そして、そのベラスケスの作品「ウルカヌスの鍛冶場」は、この絵本がスペイン編であるにふさわしく、スペインの有名なプラド美術館にある。

結婚式の場面に、わざわざ妻の不貞をその夫に告げにくるギリシャ神話の一場面を借りて、それをリアリズムの基調で描いたベラスケスの作品を持ってきたのは、まさに安野光雅のユーモアとアイロニーというほかはない。

が、しかし、それに気づかなければ、村ののどかな鍛冶屋の一場面に終わってもいっこうに差し支えないかも知れない。

安野光雅の頭は、それほどかたくはない。


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小川芋銭の書「千鳥」

2015-08-02 19:33:18 | 小川芋銭


上図は、「茨城県近代美術館だより No.90」(2011年9月発行)に書いた拙稿からの引用図版である。

そのうち、左の作品は、同館で「千鳥」と呼んでいる。

同館では書のコレクションはしていないから、これは日本画に分類しているが、芋銭の書としての作品と見ていいと思う。

作品名が「千鳥」だが、それは2羽の鳥の図が描かれているからに過ぎない。この作品は、古稀記念新作展に出品されており、「如虚雲」がこの作品に相当するものと考えられる。

「千鳥」というタイトルは、私の記憶が間違っていなければ、酒井三良が書いたこの作品の軸箱(このような場合を、「共箱」ではなく「識箱」と呼ぶ)の題に由来するものだ。

ここには、三良から見れば「五字讃」が書かれている。
そのうち3字はこの作品の本来のタイトルである「如虚雲」だが、最初の2字、特に私には2番目の文字がなかなか読めなかった。

最初の文字も、いくつかの読みが考えられ、次の文字が読めないと、正確には分からない。それで、ちょっと苦労した。

書の専門家は2番目の文字もすぐにわかるのかもしれないが、油彩画を中心にした学芸活動しかして来なかった私には、難しかった。

読めなくて、しばらくあきらめていたが、ある時、立派な装丁の芋銭の画集を見ていると、彼の書に「渓雲漢々一行」と題されている作品があることに気づいた。それが、上図の右の作品である。

「渓雲漢々」とは聞きなれない表現だが、これは、「渓雲漠々」の読み間違いか、校正ミスだとすぐに気付いたが、そのあとの文字が何と読むとか、ぜひ知りたいところだった。

というのは、この中の1文字に、「千鳥」の最初の2文字のうちの2番目の文字にとても似ている文字があることを偶然見つけたからである。

それは「冷」だった。もしくはサンズイの「泠」だった。そうであれば、最初の文字は「清」だろう。
五字讃は「清冷如虚雲」と書いてあるのだった。

あとから知ったが、「渓雲漠々水冷々」(または「水泠々」)あるいは、それに似た語句は、芋銭の他の作品でも用いられていた。どうやら芋銭はこの言葉が好きだったようだ。
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