美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

「平気でうそをつく人たち」を読む(4) 私のメモ

2015-09-08 11:47:19 | 個人的なメモ


(以下のメモは、標記(2)と(3)と同様、必ずしも訳文通りではない。省略的になっている部分もある。)

あらゆる動物が殺しを行う。これは必ずしも食物を得るためでもないし、自分の身を守るためでもない。…猫は十分な餌を与えられているにもかかわらず、噛み裂かれたシマリスの死骸を家に持ち込んでくる…これは狩りの楽しみのための殺しである。しかし人間の行う殺しには他の動物にはない独特なものがある。人間の行う殺しは本能によるものではない。p300

本能ではなく学習や経験によって習得された個々の人間の選択によって自由に行動するのが人間である。死すらいとわない自由意志によって行動するのが人間である。p301

悪とは人間の自由意思に必然的に伴う共存物である。選択する力が備わっているからこそ善または悪を選択する自由を持っているのである。p301

多くの動物は自分たちのテリトリーを守るため殺しを行うことがあるが、自分が見たこともないはるか遠くの土地の利益を守るために大量殺戮を命じるなどということをするのは人間だけである。p301

ナショナリズムは悪性の国家ナルシシズムになっていることが多い。p302

われわれは知らずに自分の子供に国家ナルシシズムを植え付けていることが多い。p302

命を危険にさらして出かけていく男たちの95%は、あの戦争がどういう戦争だったかについて、いささかの知識ももちあわせていなかったのである。

知的怠惰と病的ナルシシズムが集団の悪を招くp309

     * * * * * *

「神の加護がなかったのなら自分もそうなっていただろう」という内省こそ他人の悪を判断する時に常に忘れてはならないものである。p314

科学的事実とは単に一部の科学者たちが今現在信じていることに過ぎない。専門領域で研究をしている科学者たちの多数の判断でもっとも真理に近いとされているものに過ぎない。p316

あくまでも自分自身の個人的リーダーシップを放棄してはならない。少なくとも善悪の問題については。p317

邪悪な人間は自分の邪悪性を他人に投影する性癖がある。p320

現代科学は大企業や政府に複雑に結びついており、もはや<純粋>科学などというものは存在しなくなっている。p322

もはや科学は価値観の問題を無視することはできないし、無視すべきでもない。p322






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「平気でうそをつく人たち」を読む(3)私のメモ

2015-09-07 09:27:01 | 個人的なメモ
集団の行動は、個人の行動に比べて、原始的かつ未成熟なレベルにある。p262

なぜなのか。その一つの答えは「専門化」という問題にある。p263

集団の中の個人の役割が専門化している時には、常に個人の道徳的責任が集団の他の部分に転嫁される可能性があり、また転嫁されがちである。…集団全体の良心が分散、希釈化され、それが存在しないも同然となる。p264

人間という有機体組織は、長期のストレスに反応して退行する傾向がある。p268

退行の他に、「防衛」というメカニズムもある。これは「精神的まひ」と呼ぶ人もいる。p268

自分の苦しみに対して無感覚になれば、他人の苦しみに対しても無感覚になれる。侮辱的な扱いを受け続けていれば自分自身の尊厳に対する感覚を失うだけでなく、他人に対する尊厳の感覚も失う。切り裂かれた死体を見ることが気にならなくなれば、自分で死体を切り刻むことも気にならなくなる。p269

人間はストレスを受けている時の方が、快適に過ごしている時よりも悪に走りやすい。p270

真の意味での善良な人とは、ストレス下にあっても、自分の高潔さ、成熟性、感受性、思いやりを捨て去ることのできない人のことである。p271

人間の偉大さを計る尺度の一つは苦しみに耐える能力である。p271

軍隊というものは、その使命の性格からして、集団内の個人の自然発生的退行依存を意図的に助長しこれを育てている。p273

集団ナルシシズム、集団のプライドを高める方法 外敵を作る p274

邪悪な個人は自分の欠陥に光を当てるすべてのものや人間を非難し抹殺することによって、内省や罪の意識を逃れようとする。集団の場合も同じ。p275

専門家集団というものは、偶然によって生まれたのではなく、自己選択と集団選択の結果生まれた。p277

精神科医の会議に出席して、服装、言葉遣い、動作、独特の理屈っぽさを観察すれば彼らがまさしく特殊な種類の人間だという結論に達するものと思う。p277

徴兵されるよりも志願して軍に入る方を選んでいた…p278

志願したものには、即時転任、即時賜暇、特別賞与が保証されていたp279

われわれの社会がそうした役割を果たすための訓練を彼らにほどこし、それを実行するための武器を与えたのである。p281

志願兵だけがベトナムに送られていた頃は、アメリカの大衆はまだ目が覚めていなかったのも当然であった。p283

専門家集団を作るときは「自分の左手がしていることを右手が知らない」という状態になる危険性は常にある。p284

私が提案するのは多目的国家奉仕隊である。p292


つまりうそをつくということが、悪の根源であり、悪の発現だからである。われわれが邪悪な人に気づくのはひとつには彼らのつく嘘によってである。明らかににジョンソン大統領は自分がベトナムで行おうとしていることを国民が完全に知り、理解することを望んではいなかった。…なぜ国民が目を覚ますのが遅かったのか。…ここでもまた怠惰とナルシシズムに直面する。p298

邪悪性とは殺しに関係するものだ…つまりevilはliveに対立するものである。p300
 








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ピサロの「農家の娘」とMETの関連作品

2015-09-02 15:52:11 | 西洋美術

茨城県近代美術館蔵のピサロのパステル画「農家の娘」は、ニューヨークのメトロポリタン美術館(The MET)の油彩画「二人の若い農婦」の画面前景に大きく登場する左側の女性を描いたものである。
つまり茨城県近代美術館の作品はMETのこのピサロのための習作である。

METの作品は、「おしゃべり」と題されることもあるが、同館では単に「二人の若い農婦」としている。
実際、この作品を見るとそんなに夢中で<おしゃべり>しているような気配はあまり感じられない。(METのタイトルは、1892年1~2月の展覧会カタログに従ったものである。また「おしゃべり」は、1939年のカタログ・レゾネに拠るものである。)

ここには<おしゃべり>と言うよりも、何か大きくモニュメンタルな、静かな威厳に満ちた雰囲気がある。

農村風景とそこに配した人物に対するピサロの芸術的=思想的信条が画面に滲み出ているからだろう。

ピサロにとって急速な近代化は決して愉快なものではなかった。
この作品の背景のような大地とそこに生活する人間こそが第一に重要なものである。

しかし、農村生活と働く人間たちへの尊厳の眼差しは、ミレーのようにかなり理想化した姿によって表現されるのではない。むしろ、ありのままに生きている人間の姿にそれを見ていこうという態度なのである。
そして、その同時代性や画面作りには、ドガやスーラの人物設定と共有するものがある。

ただし、この作品の二人の女性のポーズは、それほどは似ていないのだが、ピサロが見ているはずのミレーの木版画から借りてきた可能性も指摘されている。

だが、そこには頬杖をついたポーズはない。これは、日常的な姿勢だが、描くのは難しい。これには、実際のモデルを使って入念な予備的習作を必要としたのではないか。

それが、茨城県が持っている作品となったのだろう。

METの作品における右側の女性を描いた同等な習作は知られていない。
これは、頬杖をついたポーズほどは難しくはなさそうなので、鋤を持った人物像のミレーの木版画がかなり参考になっているのかもしれない。

さて、画面前景左側の女性だが、この人はウージェニ・エストリュック、通称ニニと同定されている。彼女はピサロの妻ジュリー・ベレイの姪にあたる人物で、ピサロの母のメードとして働いた。1863年に生まれ、1931年に亡くなっている。

この情報は茨城県近代美術館にとっては重要だろう。

なお、METの作品解説では、「農家の娘」が茨城県近代美術館蔵になっていることは、2014年時点でも承知していない。フランスの個人蔵のままになっている。

それから、茨城県の作品は1892年作となっているが、METの作品が1891年の夏に始まり、1892年の1月半ばに完成しているのだから、むしろ1891年の可能性が高いように思われる。

METの作品は、ピサロが初めて大きな成功を収める1892年1月下旬から始まった展覧会に出品された。が、この作品は売られずに、後に彼の妻に贈られた。

ピサロの様式は、1891年までに、それまで過去5年間ほど続いていた点描法から離れている。
しかし、METの作品には、非常に明るい点描法的な雰囲気やパステル画風な筆致や色彩も感じられる。




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ピサロ2点(茨城県近代美術館蔵)の関連作品はメットにある!

2015-09-01 11:16:57 | 西洋美術

茨城県近代美術館に油彩の風景画1点(「グラット=コックの丘からの眺め、ポントワーズ」)とパステルの人物画1点(「農家の娘」)、計2点のピサロの絵画がある。

地元の美術館に詳しい方なら、よく知られているかもしれない。
だが、この2点の関連作品がいずれもニューヨークの有名なメトロポリタン美術館(通称メット)にあると言ったら「えっ、ほんとう?そうなの!」と素直に驚いてくれる人もあろう。

また、それによっていっそう興味を持ってくれる人もいようし、そこからさらに作品への見方や評価を改めてくれる人も出て来るかもしれない。

さて、メットにおける前者の関連作品とはグルーエットの丘、ポントワーズ付近である。(その他、メット以外にも、この作品の関連作品は複数ある。)

また、後者の関連作品は二人の若い農婦である。

これは、ピサロのエラニーの家近くの風景を背景にして描いた明るい作品である。二人の農家の女性を大きく、力強く画面前景に据えた構図は、その背景とともに、まさに彼の芸術的=思想的信条を直接伝えるものとなっている。
茨城の作品は、その二人の農婦のうちの左側の女性であることは、このリンク画像によって明らかだろう。

ところで、メットの「グルーエットの丘、ポントワーズ付近」の制作年は、1878年の春頃と推定されている。一方、茨城の油彩画には1878年の年記がある。

茨城の作品もかつては「グルーエットの丘からの眺め、ポントワーズ」と題されていたが、外国の「最新の研究成果」に従って改題された。

グラット=コックとグルーエットの丘では、おそらく今では地元の人でも区別がつかない程度の違いでしかないが、数十メートル、もっと離れていても数百メートル程度の範囲での違いでしかないが、それでも作品名は改題された。

メットの「二人の若い農婦」は、同館の解説によれば、1891年の夏に始まり1892年の1月半ばに完成した。
一方茨城県のパステル画は1892年の制作年となっている。

もし茨城のこの作品がメットの作品の予備的習作とすれば(明らかにそのように思われるが)、制作年の再考も、タイトル改題と同様に非常に大事なものであるから、必要になってくるかもしれない。

(追記)同館が無料で配っている「グラット=コックの丘からの眺め、ポントワーズ」のカードでは、制作年が「1878年頃」となっているものがある。が、これは年記があるのだから1878年としてよいはずだ。

メットのこの関連作品にはかつて偽の署名が画面右下に記されていた。それは消されたが、そういうものでない限り、茨城の作品は1878年作でよいと思う。

コメント (2)
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