19日目
2011年6月5日(日)晴れ
松山町駅 08:20 - 鹿島台駅 09:45 約5.2Km
昨夜は温泉でゆっくりできたことと駐車場が静かで良く眠れたこともありつい朝寝坊してしまった。
今日の出発駅である松山町駅へ行く途中でコンビニに寄り朝食にサンドイッチと缶コーヒーを買う。
鳴瀬川の川原に車を停めて朝食タイム。
と、見ると「氾濫注意」の看板がある。
この川もたびたびの氾濫に悩まされてきたのだろう。
松山町駅の近くに大震災のときの瓦礫置き場があった。
壊れた家具や冷蔵庫などの家電品が小山のようになっている。
被災地の沿岸から運ばれて来たものだろうがすごい量だ。
瓦礫置き場近くの空き地に車を置いて歩き出す。
歩きながらマンホールを見かけるとシャッターを切る。
夢中になって車道へ出て行って写真を撮ろうとしたりするので、夢中になると危ないなあと反省する。
「松島は直進」の看板が元気の元になる。
このあたりはかなりゆれが強かったようで屋根瓦の落ちた家、裏山が崩れかかっている場所などがあちこちにある。
道路のひび割れ、マンホールの浮き上がりもいちいち数えていられないほどある。
松山町と鹿島台町の町境までやってきた。
この道は歩道が無いので車が来たら出来るだけ道端に寄るようにしながら歩いた。
車を運転しているときは気にならなかったが車が高速で脇を通り過ぎるのは歩行者には恐怖である。
ここを歩いて通学している小中学生とか自転車通学の高校生もいるだろうから歩道を造ってほしいものだ。
大崎市民病院鹿島台分院の前の歩道橋を渡ろうと交差点を見ると、「●●家 葬儀」の案内看板が何枚もあった。
この葬儀案内の看板はかなりあったが、まさか震災の犠牲者のではないとは思うがわからない。
歩道橋を渡る前に東北本線の誇線橋を見ると、ものすごい段差が出来ていた。
道路のひび割れもすごいがこの段差は大きい、簡単な補修がしてあるが段差は30センチ以上はあるだろう。
歩道橋もこのような状態だった。揺れで歩道橋のタイルが剥がれてしまっているのだ。
3ヶ月たってもそのままということは、被害が大きくて補修に手が回らないということだろう。
鹿島台駅に到着。
駅舎の外見は昔ながらの小さな駅なのだが中はキオスクもあるし仙台圏内というこで自動改札になっている。
ここでは駅舎の写真を撮っただけで歩き続ける。
鹿島台駅 09:50 - 品井沼駅 11:25 約6.8Km
鹿島台駅前を離れてしばらく歩くと今は営業していないようだがオーディオ専門店があった。
わたしは若いころにはオーディオに凝ったものだから、思わず懐かしさもありシャッターを押した。
JBL、TANNOY、そういえばナカミチのヘッドフォンも買ったものだ。
マクセル録音テープの看板が泣かせる。今の若い人たちはカセットテープは知っていてもオープンリールテープなんて知らないだろうなあ。
5インチとか7インチとかリールに巻いてあってテープデッキにかけて音楽を楽しんだものだった。
スピーカーの自作もしたものだが、私がオーディオに情熱を燃やしていた時代から30年以上もたってしまったのだ。
と、郷愁に浸りながらも歩き続ける。
鹿島台の町を抜けて吉田川に向かう道はものすごく広い田んぼの中を通る、距離は5、6キロ程だろうか。
田んぼの向こうがかすんで見える。
この道はまっすぐなので快適に歩けそうに思えるが歩いてみると逆につらかった。
歩いても歩いても同じ景色というのはしんどいものだ。
吉田川に架かる品井沼大橋を渡ったところで堤防に座って一休みする。
品井沼駅の案内標識が見えてきた。
11時25分に品井沼駅に到着。
こじんまりとした田舎の駅の風情だ。
ここは無人駅ではなくおばさんが切符を売っている。
プラットホームも昔のまま、駅舎の前の水飲み場など昭和の駅の面影が色濃く残っている。
品井沼駅 11:30- 愛宕駅 13:05 約4.7Km
休憩を取らずに歩き出す。
ところがまた道を間違えてしまった。
東北本線に沿って道があるはずなのにどっちを見ても線路が見えないのだ。
なんと行きたい方向とは逆方向に歩いていたのだった。
国道346号線に出てしまってから道を間違えたことに気がついた。
引き返すわけにもいかず国道をひたすら歩く。
この国道は川を挟んで旧道があったのだが持っている道路地図ではそこの部分が良く分からない。
歩き終えたあとでこの旧道の方が木陰が多く快適に歩けると分かったのだった。
アップダウンのある国道をひたすら歩く、道を間違えたことで気分的にも疲れた。
おまけに道路地図に載っていたドライブインは閉店していて昼食はおあづけになってしまうし散々である。
ここには品井沼明治排水路のトンネルがある。
観光名所というほどのものでもないが整備されている。
やっと三陸自動車道の松島北インターチェンジまで来た。
地震のために電柱が大きく傾いている。
今日の目的駅である松島駅はもうすぐだ。
海が近いので津波の影響が見られる。
小船がひっくり返ったまま放置されていた。
愛宕駅に到着。
プラットホームだけの駅だがこのような駅を見ると「都会っぽいなあ」と思ってしまう。
駅そのものは見るべきこともないので写真だけ撮って歩き出す。
愛宕駅 13:10-(昼食)- 松島駅 14:40 約2.3Km
駅近くの松島中学校前の「津波避難場所」の案内板。
いつかは地震が来る、津波も来るとわかっていたとしても、まさかあのような大震災が襲うとは思っていなかった。
海が近くなるにしたがって川には転覆した漁船が目立ってきた。
そして災害派遣の自衛隊の車両も多くみかける。
日本全国から復旧のために駆けつけてくれているわけで、ありがたいことである。
仙台まで29キロの標識があった。今回の最終目的地がなんとか射程距離内に入ってきた。
お腹がすいているので昼食休憩。
ものすごく込み合っていて店員さんがあとから入ってきた客に「混んでいるので・・」断っていた。
わたしは注文したものが出てくるのに時間がかかるほうがゆっくり休めるので助る。
親子丼の昼食、「すきっ腹にまずいものなし」である。
もう松島駅は目の前だ。
モダンな松島駅舎。
さすがに駅構内もプラットホームも広くて日本有数の観光地の駅という雰囲気だ。
午後3時前と時間的には早いが今日はここまでにして松山町駅まで電車で戻る。
歩けば7時間ほどかかる距離を電車は20分ほどで走り抜け松山駅に到着。
そして車に乗って松島駅近くまで行く。
同じルートを徒歩、電車、車で都合3回も通るわけでムダといえばムダ。
松島市内のガソリンスタンドで満タンにする。1リットル150円とかなり高いのだが仕方が無い。
歩き終えたらお風呂に入りたい。さいわい松島は大きな温泉ホテルがたくさんある。
「新富亭」というホテルの日帰り温泉で身体を癒す。入浴料500円なり。
地震の影響で観光客はいないようだ、復興事業関係者だけが泊まっているようである。
松島は地震も津波の被害は少なかったほうだが震災後3ヶ月なので観光客はいないようだった。
コンビニの駐車場で今夜もインスタントラーメンと缶詰だけの夕食を食べて、明日に備えて早めに寝てしまう。
2011年6月5日(日)晴れ
松山町駅 08:20 - 鹿島台駅 09:45 約5.2Km
昨夜は温泉でゆっくりできたことと駐車場が静かで良く眠れたこともありつい朝寝坊してしまった。
今日の出発駅である松山町駅へ行く途中でコンビニに寄り朝食にサンドイッチと缶コーヒーを買う。
鳴瀬川の川原に車を停めて朝食タイム。
と、見ると「氾濫注意」の看板がある。
この川もたびたびの氾濫に悩まされてきたのだろう。
松山町駅の近くに大震災のときの瓦礫置き場があった。
壊れた家具や冷蔵庫などの家電品が小山のようになっている。
被災地の沿岸から運ばれて来たものだろうがすごい量だ。
瓦礫置き場近くの空き地に車を置いて歩き出す。
歩きながらマンホールを見かけるとシャッターを切る。
夢中になって車道へ出て行って写真を撮ろうとしたりするので、夢中になると危ないなあと反省する。
「松島は直進」の看板が元気の元になる。
このあたりはかなりゆれが強かったようで屋根瓦の落ちた家、裏山が崩れかかっている場所などがあちこちにある。
道路のひび割れ、マンホールの浮き上がりもいちいち数えていられないほどある。
松山町と鹿島台町の町境までやってきた。
この道は歩道が無いので車が来たら出来るだけ道端に寄るようにしながら歩いた。
車を運転しているときは気にならなかったが車が高速で脇を通り過ぎるのは歩行者には恐怖である。
ここを歩いて通学している小中学生とか自転車通学の高校生もいるだろうから歩道を造ってほしいものだ。
大崎市民病院鹿島台分院の前の歩道橋を渡ろうと交差点を見ると、「●●家 葬儀」の案内看板が何枚もあった。
この葬儀案内の看板はかなりあったが、まさか震災の犠牲者のではないとは思うがわからない。
歩道橋を渡る前に東北本線の誇線橋を見ると、ものすごい段差が出来ていた。
道路のひび割れもすごいがこの段差は大きい、簡単な補修がしてあるが段差は30センチ以上はあるだろう。
歩道橋もこのような状態だった。揺れで歩道橋のタイルが剥がれてしまっているのだ。
3ヶ月たってもそのままということは、被害が大きくて補修に手が回らないということだろう。
鹿島台駅に到着。
駅舎の外見は昔ながらの小さな駅なのだが中はキオスクもあるし仙台圏内というこで自動改札になっている。
ここでは駅舎の写真を撮っただけで歩き続ける。
鹿島台駅 09:50 - 品井沼駅 11:25 約6.8Km
鹿島台駅前を離れてしばらく歩くと今は営業していないようだがオーディオ専門店があった。
わたしは若いころにはオーディオに凝ったものだから、思わず懐かしさもありシャッターを押した。
JBL、TANNOY、そういえばナカミチのヘッドフォンも買ったものだ。
マクセル録音テープの看板が泣かせる。今の若い人たちはカセットテープは知っていてもオープンリールテープなんて知らないだろうなあ。
5インチとか7インチとかリールに巻いてあってテープデッキにかけて音楽を楽しんだものだった。
スピーカーの自作もしたものだが、私がオーディオに情熱を燃やしていた時代から30年以上もたってしまったのだ。
と、郷愁に浸りながらも歩き続ける。
鹿島台の町を抜けて吉田川に向かう道はものすごく広い田んぼの中を通る、距離は5、6キロ程だろうか。
田んぼの向こうがかすんで見える。
この道はまっすぐなので快適に歩けそうに思えるが歩いてみると逆につらかった。
歩いても歩いても同じ景色というのはしんどいものだ。
吉田川に架かる品井沼大橋を渡ったところで堤防に座って一休みする。
品井沼駅の案内標識が見えてきた。
11時25分に品井沼駅に到着。
こじんまりとした田舎の駅の風情だ。
ここは無人駅ではなくおばさんが切符を売っている。
プラットホームも昔のまま、駅舎の前の水飲み場など昭和の駅の面影が色濃く残っている。
品井沼駅 11:30- 愛宕駅 13:05 約4.7Km
休憩を取らずに歩き出す。
ところがまた道を間違えてしまった。
東北本線に沿って道があるはずなのにどっちを見ても線路が見えないのだ。
なんと行きたい方向とは逆方向に歩いていたのだった。
国道346号線に出てしまってから道を間違えたことに気がついた。
引き返すわけにもいかず国道をひたすら歩く。
この国道は川を挟んで旧道があったのだが持っている道路地図ではそこの部分が良く分からない。
歩き終えたあとでこの旧道の方が木陰が多く快適に歩けると分かったのだった。
アップダウンのある国道をひたすら歩く、道を間違えたことで気分的にも疲れた。
おまけに道路地図に載っていたドライブインは閉店していて昼食はおあづけになってしまうし散々である。
ここには品井沼明治排水路のトンネルがある。
観光名所というほどのものでもないが整備されている。
やっと三陸自動車道の松島北インターチェンジまで来た。
地震のために電柱が大きく傾いている。
今日の目的駅である松島駅はもうすぐだ。
海が近いので津波の影響が見られる。
小船がひっくり返ったまま放置されていた。
愛宕駅に到着。
プラットホームだけの駅だがこのような駅を見ると「都会っぽいなあ」と思ってしまう。
駅そのものは見るべきこともないので写真だけ撮って歩き出す。
愛宕駅 13:10-(昼食)- 松島駅 14:40 約2.3Km
駅近くの松島中学校前の「津波避難場所」の案内板。
いつかは地震が来る、津波も来るとわかっていたとしても、まさかあのような大震災が襲うとは思っていなかった。
海が近くなるにしたがって川には転覆した漁船が目立ってきた。
そして災害派遣の自衛隊の車両も多くみかける。
日本全国から復旧のために駆けつけてくれているわけで、ありがたいことである。
仙台まで29キロの標識があった。今回の最終目的地がなんとか射程距離内に入ってきた。
お腹がすいているので昼食休憩。
ものすごく込み合っていて店員さんがあとから入ってきた客に「混んでいるので・・」断っていた。
わたしは注文したものが出てくるのに時間がかかるほうがゆっくり休めるので助る。
親子丼の昼食、「すきっ腹にまずいものなし」である。
もう松島駅は目の前だ。
モダンな松島駅舎。
さすがに駅構内もプラットホームも広くて日本有数の観光地の駅という雰囲気だ。
午後3時前と時間的には早いが今日はここまでにして松山町駅まで電車で戻る。
歩けば7時間ほどかかる距離を電車は20分ほどで走り抜け松山駅に到着。
そして車に乗って松島駅近くまで行く。
同じルートを徒歩、電車、車で都合3回も通るわけでムダといえばムダ。
松島市内のガソリンスタンドで満タンにする。1リットル150円とかなり高いのだが仕方が無い。
歩き終えたらお風呂に入りたい。さいわい松島は大きな温泉ホテルがたくさんある。
「新富亭」というホテルの日帰り温泉で身体を癒す。入浴料500円なり。
地震の影響で観光客はいないようだ、復興事業関係者だけが泊まっているようである。
松島は地震も津波の被害は少なかったほうだが震災後3ヶ月なので観光客はいないようだった。
コンビニの駐車場で今夜もインスタントラーメンと缶詰だけの夕食を食べて、明日に備えて早めに寝てしまう。