22日目
2011年8月30日 御堂駅ー奥中山高原駅ー小繋駅(約15.3Km)
去年の夏も暑かったが今年もかなり暑かった。
そのため真夏の期間は歩く旅を休止していた。
8月も末になり暑さも峠を越したので再び歩くことにした。
前回は御堂駅まで歩いたので、今回はこの駅がスタート地点になる。
車で御堂駅まで行き駅前に車を置いて歩き出す。
午前10時半である。
天候は晴れているのだが気温は23度前後で歩きやすい。
ひたすら国道4号線を北上する。
コスモスが咲く季節になってしまった。
ここは北上川の源流の地である。
御堂観音という社があり湧き水が北上川の源泉となっているのだ。
その御堂観音への入り口にあった民家にはなぜか郵便ポストや招き猫が飾ってあった。
途中国道を少し離れて田んぼのなかを歩く、車の騒音や排気ガスがないのだけで涼しくさわやかに感じるのだ。
東京から580Km地点になった。ここは東北本線が電化されるまで最大の難所だったところだ。
わたしが中学、高校時代に盛岡へ遊びに行くときの事をよく覚えている。
一戸駅から奥中山駅への登りにはSLの三重連だった。
この急勾配の難所のために好摩駅と北側では一戸駅で機関車の増設と切り離しが行われていた。
そのため好摩駅、一戸駅は町の規模に対して駅構内がかなり広いのだ。
そのように機関車を増設しても一気に坂を上ることが出来ず、スイッチバック方式で登っていくこともあった。
国道を歩いてみるとそのような急勾配には感じられない、もちろん車でならすいすいと通れる道である。
機関車の性能もあるだろうが当時は燃料である石炭の質が悪かったのではないのだろうか。
奥中山にあるドライブイン。
車で移動するようになってからは鉄道を利用しなくなったのだが、この路線を通るたびにこのドライブインで一休みしたものだった。
それが今ではドライブインにも寄らなくなってしまった。
道路が改良されて走りやすくなったので、途中で休憩しなくても大丈夫なのである。
わたしはは中学生のころ二戸ー盛岡間を自転車で往復したことがある。
その自転車は郵便局で集配用に使っていた中古だった。
あの当時は国道4号線はまだ舗装されておらず、盛岡近くまで行くと舗装工事をしているところだった。
思えば半世紀も前のことである、若い頃は自分が60代まで生きるなどということは想像もしなかった。
さて、
国道を少し離れて線路沿いを通り奥中山駅方面へと歩く。
いまは駅から離れたところを国道が通っているが以前は駅前の道が国道だったはずである。
いまは眠っているかのような静かな通りだった。
昼の12時だというのに道路の真ん中を歩いてもまったく平気だった、なにしろ車も人もどこにも見当たらないのだ。
しばらく行くと駅に到着、12時5分だった。
いまは奥中山高原という駅名に変わってしまっている。
たしかにここは『高原』という名がふさわしい場所である、だが観光地らしい華やかさはどこにも無い。
なにしろ駅近くの踏切名が「農場踏切」なのである。
駅の待合室では行商のおばあさんが昼食の最中だった。
いまでもこのような行商をしている人がいるということは驚きだった。
わたしが高校生の時代には通学の列車には必ず八戸方面からの行商のおばさんたちが大勢乗っていたものである。
どこの家庭でも農家でも自家用車を持ち、かなりの田舎でもスーパーマーケットやコンビニがある時代なのに行商が成り立つものだろうかと思ってしまうのだ。
本当ならこのへんで一休みしてから歩き出すのが体のために良いのだが、わたしは根がせっかちな性格なのである。
背中のディパックからパンとカップコーヒーを出して、歩きながら昼食である。
せっかちなくせに怠け者でもあるので、駅でベンチに座って休むと「ああ疲れた、今日はここまでにしておこう」などということになってしまいそうなのだ。
国道4号線最高地点を過ぎる。青森方面から「自転車旅行」の若者がやってきた。
ここは長い上り坂が続く難所である。
こんなことは若いときでなければとても出来ないだろうと思う。
カメラを向けると笑顔で「こんにちわ」と挨拶してくれた。
自分の力で長距離の自転車旅行をする若者をみると、「日本の将来も捨てたものではないなあ」とか思うのだった。
「がんばれよ、青年!」と声をかけてあげる。
ジュースや水など飲み物を持っていたなら応援の意味でプレゼントしたかったのだが、つい今しがた食べて飲んでしまったので「声援するだけ」にする。
やっと小繋駅に到着した、午後2時である。休憩なしで3時間半歩き続けたので今回はここまでとする。
小繋駅前でも自転車で旅行する若者に声をかける。
この駅は映画のロケ地にもなったところである。
駅には何冊ものノートが置かれている。
観光地に良くある「きょうは○○クンと来ました、楽しいです」というようなことが書かれているノートではない。
ノートには『命のノート』というタイトルがついているのだ。
そのタイトルにふさわしくノートには恋愛、家族、仕事、さまざまな悩みや苦しみが書かれている。
人には言えない苦しみをこの場で共有し、自分だけが苦しんでいるのではないと考えれるようにということだろう。
3月の東日本大震災のときの書き込みもあった。
震災で家族が心配になりここまで着たが、その先の交通手段が無く困っているという書き込みもあった。
無人駅だし待合室には誰もいない。ついノートをパラパラとめくり読むことになる。
列車の待ち時間が一時間近くあったが、ひとりの客も現れなかった。
ここは無人駅なので切符は国道4号線沿いの「産直・里山」というところで販売している。
上品な感じのおばあさんの手書きの切符である。
鉄道で御堂駅まで戻る。
高原にふさわしくすっきりとした青空、牧場のヘイロールが高原らしさを演出してくれる。
車で奥中山高原の温泉で汗を流してから帰宅。
2011年8月30日 御堂駅ー奥中山高原駅ー小繋駅(約15.3Km)
去年の夏も暑かったが今年もかなり暑かった。
そのため真夏の期間は歩く旅を休止していた。
8月も末になり暑さも峠を越したので再び歩くことにした。
前回は御堂駅まで歩いたので、今回はこの駅がスタート地点になる。
車で御堂駅まで行き駅前に車を置いて歩き出す。
午前10時半である。
天候は晴れているのだが気温は23度前後で歩きやすい。
ひたすら国道4号線を北上する。
コスモスが咲く季節になってしまった。
ここは北上川の源流の地である。
御堂観音という社があり湧き水が北上川の源泉となっているのだ。
その御堂観音への入り口にあった民家にはなぜか郵便ポストや招き猫が飾ってあった。
途中国道を少し離れて田んぼのなかを歩く、車の騒音や排気ガスがないのだけで涼しくさわやかに感じるのだ。
東京から580Km地点になった。ここは東北本線が電化されるまで最大の難所だったところだ。
わたしが中学、高校時代に盛岡へ遊びに行くときの事をよく覚えている。
一戸駅から奥中山駅への登りにはSLの三重連だった。
この急勾配の難所のために好摩駅と北側では一戸駅で機関車の増設と切り離しが行われていた。
そのため好摩駅、一戸駅は町の規模に対して駅構内がかなり広いのだ。
そのように機関車を増設しても一気に坂を上ることが出来ず、スイッチバック方式で登っていくこともあった。
国道を歩いてみるとそのような急勾配には感じられない、もちろん車でならすいすいと通れる道である。
機関車の性能もあるだろうが当時は燃料である石炭の質が悪かったのではないのだろうか。
奥中山にあるドライブイン。
車で移動するようになってからは鉄道を利用しなくなったのだが、この路線を通るたびにこのドライブインで一休みしたものだった。
それが今ではドライブインにも寄らなくなってしまった。
道路が改良されて走りやすくなったので、途中で休憩しなくても大丈夫なのである。
わたしはは中学生のころ二戸ー盛岡間を自転車で往復したことがある。
その自転車は郵便局で集配用に使っていた中古だった。
あの当時は国道4号線はまだ舗装されておらず、盛岡近くまで行くと舗装工事をしているところだった。
思えば半世紀も前のことである、若い頃は自分が60代まで生きるなどということは想像もしなかった。
さて、
国道を少し離れて線路沿いを通り奥中山駅方面へと歩く。
いまは駅から離れたところを国道が通っているが以前は駅前の道が国道だったはずである。
いまは眠っているかのような静かな通りだった。
昼の12時だというのに道路の真ん中を歩いてもまったく平気だった、なにしろ車も人もどこにも見当たらないのだ。
しばらく行くと駅に到着、12時5分だった。
いまは奥中山高原という駅名に変わってしまっている。
たしかにここは『高原』という名がふさわしい場所である、だが観光地らしい華やかさはどこにも無い。
なにしろ駅近くの踏切名が「農場踏切」なのである。
駅の待合室では行商のおばあさんが昼食の最中だった。
いまでもこのような行商をしている人がいるということは驚きだった。
わたしが高校生の時代には通学の列車には必ず八戸方面からの行商のおばさんたちが大勢乗っていたものである。
どこの家庭でも農家でも自家用車を持ち、かなりの田舎でもスーパーマーケットやコンビニがある時代なのに行商が成り立つものだろうかと思ってしまうのだ。
本当ならこのへんで一休みしてから歩き出すのが体のために良いのだが、わたしは根がせっかちな性格なのである。
背中のディパックからパンとカップコーヒーを出して、歩きながら昼食である。
せっかちなくせに怠け者でもあるので、駅でベンチに座って休むと「ああ疲れた、今日はここまでにしておこう」などということになってしまいそうなのだ。
国道4号線最高地点を過ぎる。青森方面から「自転車旅行」の若者がやってきた。
ここは長い上り坂が続く難所である。
こんなことは若いときでなければとても出来ないだろうと思う。
カメラを向けると笑顔で「こんにちわ」と挨拶してくれた。
自分の力で長距離の自転車旅行をする若者をみると、「日本の将来も捨てたものではないなあ」とか思うのだった。
「がんばれよ、青年!」と声をかけてあげる。
ジュースや水など飲み物を持っていたなら応援の意味でプレゼントしたかったのだが、つい今しがた食べて飲んでしまったので「声援するだけ」にする。
やっと小繋駅に到着した、午後2時である。休憩なしで3時間半歩き続けたので今回はここまでとする。
小繋駅前でも自転車で旅行する若者に声をかける。
この駅は映画のロケ地にもなったところである。
駅には何冊ものノートが置かれている。
観光地に良くある「きょうは○○クンと来ました、楽しいです」というようなことが書かれているノートではない。
ノートには『命のノート』というタイトルがついているのだ。
そのタイトルにふさわしくノートには恋愛、家族、仕事、さまざまな悩みや苦しみが書かれている。
人には言えない苦しみをこの場で共有し、自分だけが苦しんでいるのではないと考えれるようにということだろう。
3月の東日本大震災のときの書き込みもあった。
震災で家族が心配になりここまで着たが、その先の交通手段が無く困っているという書き込みもあった。
無人駅だし待合室には誰もいない。ついノートをパラパラとめくり読むことになる。
列車の待ち時間が一時間近くあったが、ひとりの客も現れなかった。
ここは無人駅なので切符は国道4号線沿いの「産直・里山」というところで販売している。
上品な感じのおばあさんの手書きの切符である。
鉄道で御堂駅まで戻る。
高原にふさわしくすっきりとした青空、牧場のヘイロールが高原らしさを演出してくれる。
車で奥中山高原の温泉で汗を流してから帰宅。