昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

テンプレ変えました。

2006-05-20 11:02:01 | Weblog
 五月も下旬に入り、ウチの地方でもイチゴ収穫は終盤にさしかかっています。(6月初旬頃まで)
 というわけで、テンプレ変えてみました。
 しかし、くどいようですが、わたくし中年のオスです。
 でも、鳥のテンプレが他に見当たらなかったのです。
 レイアウトは見やすくて、結構気に入りました。
 ブログの内容とは全然合ってませんが、御容赦を。
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逆説

2006-05-20 01:00:47 | Weblog
 前回、私はある意味うそつきだ、と書きました。
 これが有名なパラドックスであることは、いうまでもありません。(書いてから気付きましたが)
 パラドックスとして成立する為に、より厳密に表現すれば「私がいま言っている事はうそだ」となります。これは、堂々巡りで、真も偽もいえません。
 昔っからこういうのが好きで、ブルーバックスで出ていた数学パラドックスの本など、喜んで読んでいました。いわゆる、「心脳問題」に関心をもったのも、この辺りがきっかけです。
 もっとも、大学では、より実践哲学・倫理学的な興味から、宗教学を専攻することにしたのですが、ベースとなるのは「生物たるヒトに共通する世界認識の形式とその表現」の一つとしての宗教に対する関心で、どちらかというと、純粋哲学系の興味です。
 ついでにいえば、宗教は、理屈だけで推し量れない部分と、行動への影響が(それこそ生物学的本能であるはずの「死の回避」をあっさり突破するという点で)最大であることが特徴です(そうでないレベルの宗教現象も多々ありますが)。そしてこれこそ、私がこの分野を研究するに足るジャンルであると判断した所以です。
 さて、パラドックスに話を戻すと、冒頭で紹介した「嘘つきのパラドックス」は、伊坂幸太郎作品で引用されています。というわけで、次回は、伊坂幸太郎デビュー作『オーデュボンの祈り』についての感想を書く予定です。
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変人

2006-05-20 00:44:56 | Weblog
 多角的な見方をする癖がついていると、前回書きました。
 補足すると、そうせざるを得ない理由は、私が変人だから、ということに尽きます。
 私は、私なりに生きることをやめません。たとえ、それが他者から見てどれほど変であっても。
 ただし、現実の社会生活を営む上では、そうも言っていられないから、「社会通念」上は、どのような考え方・行動が妥当なのかを常に考え、ある場面では、「社会通念」に沿った行動をしているが如く見えるよう配慮します。
 ただし、自分が本来持っていた考え方や行動の選択肢を捨て去ることはしません。ソレとコレと、両方とも保持します。そういったことを、いちいち、自覚的に行っています。
 このために、多角的な見方が必要になるのです。いわば、常に自分の中に複数の視点がある。そうせざるを得ない。
 ある意味、これは、「うそつき」な訳です。私の言動・行動は、つねに、本心からそうしているというわけではないという意味で。
 ただし、私はこの場合、将来の予測とその結果に対する責任を負う覚悟をもつ、という形で自分なりに折り合いをつけています。過程はどうあれ、最終的に表出された言動・行動が「私の」ものです。
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視覚のヒト、聴覚のヒト

2006-05-20 00:37:45 | Weblog
 他人と話すのが億劫なタチです。
 それで、何か分からないことがあれば、周囲のヒトを観察して、答えを見出す、というやり方で通してきました。
 勿論、正解にたどり着くまでにかなりの労苦を伴います。社会人になってからは、こんなやり方ばかりもしていられなくなり、前ほど、だんまりのヒトではなくなりました。
 それでも、周囲のヒトが忙しそうなときなどは、今なお、昔のやり方で問題解決を図ったりもします。
 というわけで、私は「見るだけで理解する」視覚のヒトです。
 この作業には、多角的な視点からの検証が必須となります。ですので、「社会通念」とか、「一般的な解釈」がどこにあるかというのは、的外れにならず判断できる、という自信があります。
 ところで、私の奥さんはすぐれて「聴覚のヒト」です。ヒトと話すことに抵抗はないし、歌や音楽は大抵、一度聴いただけで覚えられます。(私は意識的に覚えようとしなければ覚えられません)
 彼女の世界認識は、私が思うところ、彼女の心の中に存在する「主旋律」に沿い、その構造の美しさに調和することを基準にして構成されています。
 彼女の「主旋律」は、シンプルで、事物の本質に深く根ざし、揺らぐことはありません。
 ところが、ごく稀に、私が思うところの「社会通念」とは、齟齬を来す場合があります。
 この場合、正しいのは彼女です。この場合の正しさとは、美しさです。したがって、社会通念のほうが美しくない=間違っている、ということになります。
 しかし、現実には社会通念を無視できない。非常に難しい問題です。
 私はというと、「多角的な視点」からモノを見る癖がついているので、「こういう場合の正解はコレ」という判断になります。そして、自分自身の「主旋律」に即した答えも含めて、「すべて正解といわざるを得ない」と考えます。
 一見、相反するように見える夫婦ですが、それなりにうまくやっています。
 相互補完ということもあるでしょうが、私は、彼女のもつ美しさが、それを可能にしているのだと思っています。
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読書:伊坂幸太郎

2006-05-20 00:30:34 | Weblog
 直木賞候補にもなった気鋭の作家にして、同世代人かつ同窓生です。プロフを見ると、同年生まれ、同年卒業。(おや?)
 かれは法学部で、私は文学部。文系学部は同じ箇所に集まっているので、大学4年間はだいたい同じ空気を吸っていたことになります。もちろん、当時、個人的に知っていたわけではありません。
 私はかれについては、新聞の書評で、仙台在住の作家、というくらいしか知らなかったのですが、先日、大学時代からの友人に勧められ、一冊読んでみました。
 もともと、小説はあまり読みません。現実を直接扱う文章のほうが高尚だという意識があるのでしょうか。マンガは大好きでしたが、文字ばかりの本や絵本などで「おはなし」を読むのは好きではありませんでした。まぁ、「マンガで事足りていた」ということかもしれません。
 とはいえ、大学は文学部。まわりの友人は、文学部に来るだけのことはあり、それなりに色々と読み、また文庫やらで持っていたりします。大学3,4年時は、研究室に入り浸りの生活で、その所為で研究室がなかばサロンと化していましたが、卒論執筆の合間、話相手のいないとき等に、彼らが研究室に置いていった文庫などを拝借して読む程度でした。
 私の(創作)読書経験はそんなものですが、ともあれ、手近な文庫本を・・・と、先日入手したのが『ラッシュライフ』です。
 読み始めて、まず感じたのは、やはり同世代性です。関心を持つ方向が似ている、と思いました。また、舞台が仙台ですから、身近な地名が次々と出てきます。通りや町の名前などが出てくれば、まさにリアルなその場所が頭に浮かぶことになるわけで、これはある種の特権というか、妙な気持ちになります。作家の頭の中にある風景と、ほぼ同じ風景が脳裏にあるはずだ、という確信。
 それから、成功者に対する妬みが湧き上がります。「こういう文章であれば自分も書けるのではないか」という不遜な思い。
 似ている部分、共有する時代・空気が、彼我の距離を縮める、そんな気がする分、「差も小さいはずだ」と思い込まずにはいられない。
 自意識過剰な性質なので、へたに物語などを読み始めると、こんな風に、筋と関係ないことばかりが頭に浮かんで集中できなかったりします。これも小説を好んで手に取らない理由かもしれません。
 それでも、読み進めるうちに作品世界へ没頭していきました。あの登場人物の運命は・・・?そして、あの人とこの人の関係は?
 異なる人物が織り成す、謎めいた複数の物語が、あるとき、ふと、ほどけて、絡み合う。
 その瞬間、作中の重要人物のように、ひとり、三次元の存在として、二次元の世界を見下ろすように、ふいに、物語の全体像が明らかになる。その痛快さ。
 そして、作中でイヤな人物として描かれているキャラクターは、ごく小さな、しかし精神的には少なからぬしっぺ返しをくらう、その展開。
 弱い善人は、その弱さと悪意のなさゆえに、流され、ついには罪びととなる。しかし、作中でその罪は社会的に問われることはなく、かれの精神は霧の中からひととき抜け出すことに成功する。
 けっして奇麗事ではないが、すがすがしさを残しつつ、物語は終わる。
 いや、面白かったです。こんなの自分に書ける筈ありません。スゴイ!なんだかよくわかりませんが、いろいろと嬉しくなりました。
 複雑に交錯する群像劇としては、マンガの『アドルフに告ぐ』を思い出しますが、組み立ての精緻さそれ自体が楽しめるという点では、まったく異質のものです。
 それと、モチーフとなっている神、騙し絵、解剖等の意匠も、個人的には馴染み深いもので、そういう点でも、やはり、同時代人だなあ、との思いをを強くしました。
 その後、ウェブで著者インタビューなどを見ましたが、飾らない人物像が見て取れ、「当時知り合っていれば友達になれたかもしれないな」等と勝手に思ってみたり。
 ともあれ、世間を狭くすることでかろうじて息をついている様な私は、自分ではなかなか、こういった豊潤な世界に触れる機会を持てないので、折に触れ、私にこういった世界を紹介してくれる友人には、ただひたすら感謝しています。

コメント (4)
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農業:集落営農について

2006-05-20 00:19:39 | Weblog
 農業と関係が深い職場におりますので、来年から水田農業の補助金交付のしくみが変わることに伴う、さまざまな啓発や誘導の現場に立ち会うことになります。
 こちらのサイトでは、農業改良普及指導員の方が奮戦しておられます。一方、こちらでは、農家(ご自身はまだ本格就農ではないようですが)から見た端的な感想が示されています。
 上で書いたように、水田農業の補助金は、来年から算定方法と支払対象が変わります。支払はある一定規模以上の経営面積を持つ農家または農家の集団で、集団の場合は、5年以内に法人となることが求められます。
 これは、効率的な農業経営ができる農家のみを助成対象とするもので、農業経営体全体を効率経営へと誘導する施策です。
 いままでは、赤字経営農家でも一定の補助はもらえましたが、今後は、黒字になるように努力する、そういう可能性のある農家にならないと補助がもらえません。
 ところで、個人でやる方はともかく、集団のほうは様々な問題があります。そして、私が目にする現場では、補助金を受けられる集団となる作業はなかなか進んでいません。
 もともと、集団のほう(集落営農といいます)は、全農が要望して制度に入れられたものです。というのは、個人の農家で一定規模以上のヒトに助成を集中すると、その他のヒトは収益性が下がりますから、いずれは離農するでしょう。ところで、農業協同組合は、組合員が一定数いないと、組織として成り立ちません。上の政策は、大規模経営農家への誘導ですから、農地あたりの農家数は減らざるをえないので、すなわち、組合員数はどうしても減ります。
 それだけではありません。大規模に経営する農家は、組合を通じた資材購入や出荷をしなくてすむ可能性が高まります。資材メーカーや販売業者とも直接取引きができる可能性が高まるからです。
 もともと農協は、小規模農家が市場に相対する際に不利にならないように作られた組織ですから、小規模農家がなくなれば、必要もないのだともいえます。
 とはいえ、農協で働く職員もいるわけで、不要だから「ハイさようなら」というわけにもいきません。
 このため、農協が中心となって集落営農を推し進めることで、個々の小規模農家が営農を続けられるようにし、組合員を減らさないようにしたい、というのが農協の本音となります。
 ところが、集落営農組織はいずれ法人化することが条件ですから、法人となってしまえば、全体として大規模農家と同じになるわけですから、問題の先延ばしのように見えなくもありません。
 いっぽう、農家の側も、個人で大規模化することを考えていない場合、はたして集落営農に乗ってよいのか?と疑問に思っているようです。農家は、いずれは補助金がなくなるものと考えています。それならば、色々な我慢をして集落営農組織に参加したところで同じではないのか?あるいは、集団化は少数の先導者のみが得をして、そうでない者には利益が少ないのではないか?集団化したはいいが、結果的に補助金がもらえないという「梯子はずし」に遭わないか?
 農家だって生活が係っているのだから必死だ、ともいえるでしょうが、そもそも農協に出荷するような小規模の農家は赤字経営のところも多いのです。
 そういう場合、兼業農家で別部門からの収入補填で農業を行っていることになります。そういうヒトにとっては、集落営農もしない、個人として大規模化もしない、となれば、これまでもらえた補助金が減らされ、生活は苦しくなることが目に見えているわけですから、本当は選択肢はないはずです。
 もっとも、補助金をもらうためには、もうひとつ「生産調整」へ参加する、いわゆる減反に協力する必要もあります。ですから、補助金行政とはさっさと見切りをつけて、自前の農地でめいっぱいコメを作って売る、という選択肢もあるでしょう。しかし、この場合、農協は買い上げないでしょうから自主流通米とすることになります。高く売れればいいですが、昨今の情勢からして簡単なことではありません。
 あとは、離農ですが、こういった農家は、結局農地集積というものを避けている方が多い。自分の農地を確保し、自ら耕作することにこだわっている。
 「変わらなければいけない」のに「変わらなければいいのに」と言って、「変わらない」ことを期待しているようにも見えます。
 生活が苦しくなれば、離農して農地を売るか、集落営農に参加して補助金交付対象となるしかないのでしょうが、そんなにのんびりした制度でもありません。
 もっとも、集落営農がめでたく発足しても、問題があります。形だけ組織化した場合、本当に将来、法人になれるのか。なれなければ補助金は切られるのではないか(このあたりどうなるかはまだわかりませんが)、あるいは、法人化したはいいが経営に失敗する場合は?集落営農化したはいいが、面積要件をクリアできなくなったら?・・・結果的には、大量離農になってしまう可能性もあります。
 「それも含めて農地・農業のリストラだ」といってしまえばそれまでですが、今回の政策変更は結局そういうことです。(しかし、結果として、赤字で農業を続けていた人は離農させられることで経済的には上向くかもしれません)
 ところで、一説には、集落営農というシステムは、集落営農組織をみなし法人として課税することを企図しているとか・・・まあ、実際は、課税要件を満たせば課税される、そうでなければされない、というだけでしょうが、少なくとも法人化すれば課税対象となるわけです。
 ここでポイントなのは、個人の所得税と違い、「赤字でもかかる住民税」が課されること。
 もっとも、経営体質の強化をねらった誘導施策ですから、法人住民税くらい払えなければそもそも仕方がないわけです。四の五の言っても始まらない。
 ただ、農家が自前の農地にこだわるのは、戦後混乱期のような状況を想定しているから、かも知れません。そうなったら、生産手段を確保している者が強い。何らかの原因で闇市経済に陥るようなことがあれば、その時は有利になるでしょう。問題はそれまで経営がもつかどうか。だから、これも本気ならば、個人で大規模経営に踏み切るしかないというのが本当のところでしょう。(あるいは、集落営農に参加しても、土地所有権を確保さえしていれば、補助金交付システムが崩れ、集落営農組織が解散しても、自分の土地は残るのですから、やりようだ、という気もします。)
 まあ、ある意味農業は「生活文化」であって、「やめるわけにはいかない」という感覚もあるのでしょう。しかし、以前も議論しましたが、ここまで人口が膨れ上がってしまった日本では、たとえ何千年続いた伝統であろうと、終わらせることは仕方がないと、個人的には思います。文化を遺したいなら、それに特化した場所、組織、人が必要で、食糧生産は、効率性、生産性に特化したほうがよい。

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