「タイガーマスク恩同」と名がついた一連の「伊達直人」その他多くのキャラクターを仮称する匿名人物からの寄付。
寄付文化が足りないと言われた日本にして,珍しいことだが,報道を契機に模倣が多発するのは,いつもの光景ではある。
はてブで紹介されていた下記2記事は,秀逸と感じる。
http://saereal.saereal.net/?eid=1587660
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20110111/1294774406
どちらも,善意の陥穽について述べられている。
上では,善意の行使は「自己満足」でしかなく,かつ,相手からの感謝を要求する傲慢な行為であることへの強烈な自省。
下では,一連の運動が寄付文化的な何かとは異なる動機によるのではないかという直観。
筆者はどちらにも,ほぼ同意。
そもそも寄付をするならモノじゃないほうがいいに決まっている。
なのになぜモノを配るのか?日本人はどうも「現ナマ」による寄付を忌避している気がする。
「あからさますぎる」と感じるのではないか。婉曲文化の一端ではないか。
また,同運動は社会的注目を浴びる。おそらく報道に乗りたいという欲求が後押ししている。
しかも,流行に乗るという快楽も伴う。
妻にそう話しかけたら,一部反論があった。
「現金でないのは,大人が使い込むのではないかという不信感からではないか」と。
どうなのだろう?そういう心情もあるかもしれない。
もともと発端となったランドセルは,ありがちな物語としては「孫に贈る」ものだったりする。
そういう物語と,本来意図しない層へ(ひょっとしたら着服として)配分されることの忌避とが,結びついた結果かもしれない。
この文章は、結論を述べたくて書いた文章ではないが,ひとつ言えることは,この運動が「寄付文化」となることはないのだろう,ということ。
やはりこの運動,本質は「物語性への欲求」なのだろうから。
ひとつは架空の,あるいは歴史上のキャラクターがまとう「物語」への仮託。
あるいは,報道された流行現象という「現在、共有され費消されつつある物語」への合流。
そして「匿名の善意」というありがちな物語と,そこに認められている価値。
本来は,寄付は使い勝手を考えれば,まず現金,又は貨幣と交換可能な何か以外にはありえない。(困っているものを必要数きっちり,というのはまた別。)
それを選ばない時点で,本人の欲求の先は「相手」ではなく「自己満足」にある。
汚らわしいと思っても現金で寄付するのが,相手のことを純粋に考える行為に近い。
良い点は「物語は寄付へのハードルを下げることができる」という点だろう。
以前は「ホワイトバンド」がそうだった。
あれもまた,のちに,否定された。
物語は寄付へのハードルを下げるが,寄付文化は,根付かない。
つらつら考えたが,日本では「できることをお互いに配慮する」ことが美徳とされるように思う。
つまり,強烈に滅私的に相手のために何かをする,という動機付けに乏しい。
「お互い様」の精神といったらよいか。
無論,親しい隣人などのあいだで,必死に相手のためを思った行動などは出てくる。
ただ,寄付とは,やはり違うのだと思う。
寄付は,少なくとも西洋的な寄付は,「喜捨」である。それは「捨てる」のだ。「天国での平安」のために。
そういう感覚は,われわれの文化では,把握しがたい,
どうしても。
日本的な寄付は,だから,今後もこのようなものとして,続くのだろう。
寄付文化が足りないと言われた日本にして,珍しいことだが,報道を契機に模倣が多発するのは,いつもの光景ではある。
はてブで紹介されていた下記2記事は,秀逸と感じる。
http://saereal.saereal.net/?eid=1587660
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20110111/1294774406
どちらも,善意の陥穽について述べられている。
上では,善意の行使は「自己満足」でしかなく,かつ,相手からの感謝を要求する傲慢な行為であることへの強烈な自省。
下では,一連の運動が寄付文化的な何かとは異なる動機によるのではないかという直観。
筆者はどちらにも,ほぼ同意。
そもそも寄付をするならモノじゃないほうがいいに決まっている。
なのになぜモノを配るのか?日本人はどうも「現ナマ」による寄付を忌避している気がする。
「あからさますぎる」と感じるのではないか。婉曲文化の一端ではないか。
また,同運動は社会的注目を浴びる。おそらく報道に乗りたいという欲求が後押ししている。
しかも,流行に乗るという快楽も伴う。
妻にそう話しかけたら,一部反論があった。
「現金でないのは,大人が使い込むのではないかという不信感からではないか」と。
どうなのだろう?そういう心情もあるかもしれない。
もともと発端となったランドセルは,ありがちな物語としては「孫に贈る」ものだったりする。
そういう物語と,本来意図しない層へ(ひょっとしたら着服として)配分されることの忌避とが,結びついた結果かもしれない。
この文章は、結論を述べたくて書いた文章ではないが,ひとつ言えることは,この運動が「寄付文化」となることはないのだろう,ということ。
やはりこの運動,本質は「物語性への欲求」なのだろうから。
ひとつは架空の,あるいは歴史上のキャラクターがまとう「物語」への仮託。
あるいは,報道された流行現象という「現在、共有され費消されつつある物語」への合流。
そして「匿名の善意」というありがちな物語と,そこに認められている価値。
本来は,寄付は使い勝手を考えれば,まず現金,又は貨幣と交換可能な何か以外にはありえない。(困っているものを必要数きっちり,というのはまた別。)
それを選ばない時点で,本人の欲求の先は「相手」ではなく「自己満足」にある。
汚らわしいと思っても現金で寄付するのが,相手のことを純粋に考える行為に近い。
良い点は「物語は寄付へのハードルを下げることができる」という点だろう。
以前は「ホワイトバンド」がそうだった。
あれもまた,のちに,否定された。
物語は寄付へのハードルを下げるが,寄付文化は,根付かない。
つらつら考えたが,日本では「できることをお互いに配慮する」ことが美徳とされるように思う。
つまり,強烈に滅私的に相手のために何かをする,という動機付けに乏しい。
「お互い様」の精神といったらよいか。
無論,親しい隣人などのあいだで,必死に相手のためを思った行動などは出てくる。
ただ,寄付とは,やはり違うのだと思う。
寄付は,少なくとも西洋的な寄付は,「喜捨」である。それは「捨てる」のだ。「天国での平安」のために。
そういう感覚は,われわれの文化では,把握しがたい,
どうしても。
日本的な寄付は,だから,今後もこのようなものとして,続くのだろう。
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