昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

宗教学(その2)

2006-08-29 23:26:02 | Weblog
 さて、宗教感情が、大脳生理学的には、言語化以前の反応により親和性が高いということは、とりもなおさず、同様のものが他の生物にもあるのではないか、との疑問を想起させます。
 しかし、このことについては、「複雑、明瞭かつ抽象的な言語体系を有する」我々人類という種の特殊性が、宗教を宗教たらしめているもうひとつの要素である可能性について指摘することが出来ます。
 人間は、自己の活動を客観的に認識することが出来ます。通常、メタ意識と言われますが、これには通常、言語が用いられます(むろん、言語化できないものについても認識する場合はあります)。しかし、宗教感情はその強烈さにもかかわらず、言語化しがたい。この「言語化しがたい」ことが、客観的にこの感情を捉えることを妨げ、それが故に「至高」という価値を有さざるを得ないということが考えられます。
 というのは、より低次に属する感情は、どちらかというと、生存に直接関与する行動を支配するものである可能性が高いからです。人間以外であれば、そのような強烈な感情を反省することなく、即、その感情に従った行動を取ればよいが、人間はそうはいかない。「自分がなぜそのような行動をとるのか」自分で納得したがる。しかし、それをやっていては生命の危険がある。だから、そのような感情には「至高」の価値をとりあえず与えてしまい、有無を言わさず行動に結びつけるよう進化していった、とは考えられないか。その方が生存に有利であったからこそ、ヒトの脳や、ヒトという種の行動様式は、そのように進化した、と。
 この着想のもとになったのは、「供犠の起源は肉食動物による補食圧である」とする主張です。(『人はなぜ神を作りだすのか』青土社)
 私には、この説は、一見無関係な「生命を奪う行為」と、「自らの生存」との間に、明確な相関関係を結ぶことが出来る、非常に魅力的なものと思えました。すなわち、ヒトは捕食者に有無を言わさぬ戦慄を覚え、逃げ出すようにプログラムされている。それを理性で捉えようとしても、実はうまくいかない。なぜなら、ヒトは肉食獣の脅威以外にも、その知能でさまざまな生存の危機を予測できるようになり、この感情と行動への動機付けとが、一対一の対応でなくなったからである。
 こう考えれば、「生存」のためというごく基本的なレベルの、「低次」な脳活動が、「至高」の価値を有する理由がよく説明できるように思えます。
 また、『脳はいかにして<神>を見るか』(PHP研究所)という本では、ヒトの神秘体験に焦点をあて、そこで観察される脳活動から、自分の体に関する位置情報の混乱が、こういった体験を特徴づける一つの要素であること(「自己と他者の区別の消失」(孤独感の解消につながる)や「時間超越の感覚」等)を明らかにします。これも、宗教活動の根拠を大脳生理学に見出すと言う点で、私の関心と全く同じものであり、非常に興味深く思いました(さらに著者らは、大脳における観念操作の基本的構造と宗教活動との関連に言及します。これは現代的なカント哲学といってもよいと思います)。
 そして、著者らは、一見奇妙なことですが、「ヒトの感情が宗教体験に重きを置くと言うことは、それに見合った実体があるとしてもおかしくはない」つまり、「神が実在する可能性もある」という主張も行います。
 西洋の宗教学研究では、しばしばこのように、宗教的伝統への率直な回帰が見られることがあり、その意味でも面白い本です。
 まとめると、私の関心のひとつは「宗教現象の生物学的根拠」であり、それは「ヒトに特有の脳活動から見出されるはずである」という仮説を伴います。そして、「生物学的根拠」である以上、それは「生存に有利でなければならない」と考えます。上記の議論は、これらの仮定にうまく適合するように思えます。
 そして、しばしば宗教が、信者に対して言語化をことさら拒否するような仕方で語られる理由も分かります(禅の公案など)。すなわち「曰く言いがたいが、それゆえ、これに従う」ことこそが、初期人類の生存率を高める行動戦略であったからに他なりません。神秘主義もそうです。これは、恍惚の体験という特殊な感情の状態に入ることを目的としますが、そのようにす
ることで、明晰な論理を超えた動機や理解を得ること、感情の指示にただ従うことが、訓練されます。それは、脳内ではある種の強烈な快感を伴う反応で、それゆえに論理を超えた強い動機となりうるものだと考えられます。
 では、これが強烈な忌避感情とならないのは何故か。それは、被食者が捕食者に捕まったとき、しばしば「観念した」ようにおとなしくなることと関係しているかもしれません。すなわち、一旦、自らが犠牲になることが決まれば、それに従うほうが、全体での生存確率は増すからではないか(数が増えすぎない等)・・・というようなところまで、考えているところです。
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