昨年、旧友と久々にメールをした。その契機が恩師の死去というのが寂しい限りであるが、旧友が思いのほか来仙し研究室や当時メンバーとの交流を保っていたのを知り、いささかうらやましくもあった。
メールの内容はほとんどが愚痴になってしまったが、彼我の違いみたいなことを知るという点においては彼にも利があったと信じる。 コミュ強の彼とコミュ障の私とでは社会人としての立ち振る舞いや感じ方において大きく差があることはよく考えればわかることである。そうでなくとも私は極論の人間であるから、公務員のように公という看板を背負う職業に対しては、当然のこととして清廉さを、そして更に価値を上げるためには自己犠牲を求める。もとより、人は正義であろうとすれば自己犠牲をせぬわけにはいかぬのであるというのが私の価値観の一つである。正義は利他性にあり、しかも絶対的な利他性が求められる。なぜなら、ある行為に自己の利益ないし満足が含まれるのであれば、それは言葉の定義上利己的な行為でしかありえないからである。利己的な行為は当たり前のものであり、そこに価値、特に倫理的美的な価値はない。
こうした考察から考えられる絶対的利他行為というのは、ある行為がひどく自分の尊厳を傷つけ、あるいは肉体的苦痛に満ち、とうていそうしたことが我慢ならないという感情のもとで行われた行為が利他的である場合に限られる。そして、その行為が利他的であったということが当の行為者に認知された場合は「某々の役に立ったのだから仕方ない」といった自己満足感情を惹起させうるものであるため、当該行為が利他性を含むものであったことは、少なくとも当人が死亡するまでは知られてはならない。
つまり絶対的利他的行為というものは、当該個人にとっては終わりなき絶望と苦痛のもとで行われるものでなければならず、そのこと自体に救いを求めるような倒錯的感情も許さぬ類のものである。
なお、旧約聖書ヨブ記の内容は、すなわちこうした状況をこそ正義と洞察していると解される。
閑話休題。私は公務員がまっとうに職業を行う上では、基本的にこうした自己犠牲を求める。それがないのであれば、公務員としては利己的行為しかなしえない、その癖に公権力を他者に行使するという、いわば「特権」を、また同時には理不尽なことを他者に強制するという「罰」を与えられているという自覚をすべきだと考えている。つまり、公務員である以上、絶対に、絶対にだ、自分は偉いのだ、他者よりも価値が高い人間だ、などと考えてはならぬのである。公務員組織において階級が上になるほど、その責任の重圧に常に押しつぶされそうになり、吐きそうになりながら日々の仕事を行うほかない。そういうあり方ができない人は、公務員という職業において組織の上に立つ資格はない。
これは首長や議員については一層そうである。彼らは選挙で選ばれた以上、その任期中は粉骨砕身、無私の働きをせねばならない。それが宿命である。とはいえ、どうせ我々人間にできることは限られ、いくばくかの幸せや私事や満足や利益(議員報酬のこと)がなければ務まらないことは十分承知の上で、やる以上は、そして期間限定である以上は、そこを目指すべきなのである。公務員たるもの高潔たるべし、あるいは自らが高潔でいられないことを十分自覚し、恥じて後悔し生きるべし、である。
つまり、どのみち公務員という職業を誠実に行おうとすれば、そこには果てしない苦痛しかない。そういうことを受け入れないのであれば、法の範囲内で私的利益を充足し糊口を凌ぐこと、つまり非公務を職業として選択すべきである。
私のこうした極端な価値観は、彼には理解できても共感はできないらしい。残念である。ただ、よく考えればやむを得ない。おそらくほとんどの人はそんな風に公務員という職業を捉えてはいない。しからば他者との共感性が高い人ほど、かような独自の価値観に共感はすまい。
しかし、論旨に矛盾がない以上、究極純粋にはそういうものであるべきだし、そうなるものである。思考を突き詰め、物事をとことんまで純化せよ。公務員という職業の本性を十分に自覚せよ。そのうえで、耐えられないのであれば己の弱さ愚かさ無価値さを認め、恥じて務めよ。
そういう価値観では仕事ができない。人間的でない。当然そうした意見が出ることは理解する。しかし、そうであれば、転職をすべきである。「公」なる概念の束縛は、呪いにも似てかように恐ろしいものであるのだから。
逆にいえば、群れずに個として生きれば、公という概念に向き合う必要はなくなり、こうした呪いとは無縁でありうる。だから私は個であること、孤独であることを好む。かつ、そういう私から見ると、かなり多くの公務員は、恥知らずであると見えてしまう。換言すれば美しくない。そして、ヒトである以上、真善美の価値を有するのだから、こうした在りようが美しくないことの自覚くらいは最低限持つべきではなかろうか。
メールの内容はほとんどが愚痴になってしまったが、彼我の違いみたいなことを知るという点においては彼にも利があったと信じる。 コミュ強の彼とコミュ障の私とでは社会人としての立ち振る舞いや感じ方において大きく差があることはよく考えればわかることである。そうでなくとも私は極論の人間であるから、公務員のように公という看板を背負う職業に対しては、当然のこととして清廉さを、そして更に価値を上げるためには自己犠牲を求める。もとより、人は正義であろうとすれば自己犠牲をせぬわけにはいかぬのであるというのが私の価値観の一つである。正義は利他性にあり、しかも絶対的な利他性が求められる。なぜなら、ある行為に自己の利益ないし満足が含まれるのであれば、それは言葉の定義上利己的な行為でしかありえないからである。利己的な行為は当たり前のものであり、そこに価値、特に倫理的美的な価値はない。
こうした考察から考えられる絶対的利他行為というのは、ある行為がひどく自分の尊厳を傷つけ、あるいは肉体的苦痛に満ち、とうていそうしたことが我慢ならないという感情のもとで行われた行為が利他的である場合に限られる。そして、その行為が利他的であったということが当の行為者に認知された場合は「某々の役に立ったのだから仕方ない」といった自己満足感情を惹起させうるものであるため、当該行為が利他性を含むものであったことは、少なくとも当人が死亡するまでは知られてはならない。
つまり絶対的利他的行為というものは、当該個人にとっては終わりなき絶望と苦痛のもとで行われるものでなければならず、そのこと自体に救いを求めるような倒錯的感情も許さぬ類のものである。
なお、旧約聖書ヨブ記の内容は、すなわちこうした状況をこそ正義と洞察していると解される。
閑話休題。私は公務員がまっとうに職業を行う上では、基本的にこうした自己犠牲を求める。それがないのであれば、公務員としては利己的行為しかなしえない、その癖に公権力を他者に行使するという、いわば「特権」を、また同時には理不尽なことを他者に強制するという「罰」を与えられているという自覚をすべきだと考えている。つまり、公務員である以上、絶対に、絶対にだ、自分は偉いのだ、他者よりも価値が高い人間だ、などと考えてはならぬのである。公務員組織において階級が上になるほど、その責任の重圧に常に押しつぶされそうになり、吐きそうになりながら日々の仕事を行うほかない。そういうあり方ができない人は、公務員という職業において組織の上に立つ資格はない。
これは首長や議員については一層そうである。彼らは選挙で選ばれた以上、その任期中は粉骨砕身、無私の働きをせねばならない。それが宿命である。とはいえ、どうせ我々人間にできることは限られ、いくばくかの幸せや私事や満足や利益(議員報酬のこと)がなければ務まらないことは十分承知の上で、やる以上は、そして期間限定である以上は、そこを目指すべきなのである。公務員たるもの高潔たるべし、あるいは自らが高潔でいられないことを十分自覚し、恥じて後悔し生きるべし、である。
つまり、どのみち公務員という職業を誠実に行おうとすれば、そこには果てしない苦痛しかない。そういうことを受け入れないのであれば、法の範囲内で私的利益を充足し糊口を凌ぐこと、つまり非公務を職業として選択すべきである。
私のこうした極端な価値観は、彼には理解できても共感はできないらしい。残念である。ただ、よく考えればやむを得ない。おそらくほとんどの人はそんな風に公務員という職業を捉えてはいない。しからば他者との共感性が高い人ほど、かような独自の価値観に共感はすまい。
しかし、論旨に矛盾がない以上、究極純粋にはそういうものであるべきだし、そうなるものである。思考を突き詰め、物事をとことんまで純化せよ。公務員という職業の本性を十分に自覚せよ。そのうえで、耐えられないのであれば己の弱さ愚かさ無価値さを認め、恥じて務めよ。
そういう価値観では仕事ができない。人間的でない。当然そうした意見が出ることは理解する。しかし、そうであれば、転職をすべきである。「公」なる概念の束縛は、呪いにも似てかように恐ろしいものであるのだから。
逆にいえば、群れずに個として生きれば、公という概念に向き合う必要はなくなり、こうした呪いとは無縁でありうる。だから私は個であること、孤独であることを好む。かつ、そういう私から見ると、かなり多くの公務員は、恥知らずであると見えてしまう。換言すれば美しくない。そして、ヒトである以上、真善美の価値を有するのだから、こうした在りようが美しくないことの自覚くらいは最低限持つべきではなかろうか。
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