昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

農業:集落営農について

2006-05-20 00:19:39 | Weblog
 農業と関係が深い職場におりますので、来年から水田農業の補助金交付のしくみが変わることに伴う、さまざまな啓発や誘導の現場に立ち会うことになります。
 こちらのサイトでは、農業改良普及指導員の方が奮戦しておられます。一方、こちらでは、農家(ご自身はまだ本格就農ではないようですが)から見た端的な感想が示されています。
 上で書いたように、水田農業の補助金は、来年から算定方法と支払対象が変わります。支払はある一定規模以上の経営面積を持つ農家または農家の集団で、集団の場合は、5年以内に法人となることが求められます。
 これは、効率的な農業経営ができる農家のみを助成対象とするもので、農業経営体全体を効率経営へと誘導する施策です。
 いままでは、赤字経営農家でも一定の補助はもらえましたが、今後は、黒字になるように努力する、そういう可能性のある農家にならないと補助がもらえません。
 ところで、個人でやる方はともかく、集団のほうは様々な問題があります。そして、私が目にする現場では、補助金を受けられる集団となる作業はなかなか進んでいません。
 もともと、集団のほう(集落営農といいます)は、全農が要望して制度に入れられたものです。というのは、個人の農家で一定規模以上のヒトに助成を集中すると、その他のヒトは収益性が下がりますから、いずれは離農するでしょう。ところで、農業協同組合は、組合員が一定数いないと、組織として成り立ちません。上の政策は、大規模経営農家への誘導ですから、農地あたりの農家数は減らざるをえないので、すなわち、組合員数はどうしても減ります。
 それだけではありません。大規模に経営する農家は、組合を通じた資材購入や出荷をしなくてすむ可能性が高まります。資材メーカーや販売業者とも直接取引きができる可能性が高まるからです。
 もともと農協は、小規模農家が市場に相対する際に不利にならないように作られた組織ですから、小規模農家がなくなれば、必要もないのだともいえます。
 とはいえ、農協で働く職員もいるわけで、不要だから「ハイさようなら」というわけにもいきません。
 このため、農協が中心となって集落営農を推し進めることで、個々の小規模農家が営農を続けられるようにし、組合員を減らさないようにしたい、というのが農協の本音となります。
 ところが、集落営農組織はいずれ法人化することが条件ですから、法人となってしまえば、全体として大規模農家と同じになるわけですから、問題の先延ばしのように見えなくもありません。
 いっぽう、農家の側も、個人で大規模化することを考えていない場合、はたして集落営農に乗ってよいのか?と疑問に思っているようです。農家は、いずれは補助金がなくなるものと考えています。それならば、色々な我慢をして集落営農組織に参加したところで同じではないのか?あるいは、集団化は少数の先導者のみが得をして、そうでない者には利益が少ないのではないか?集団化したはいいが、結果的に補助金がもらえないという「梯子はずし」に遭わないか?
 農家だって生活が係っているのだから必死だ、ともいえるでしょうが、そもそも農協に出荷するような小規模の農家は赤字経営のところも多いのです。
 そういう場合、兼業農家で別部門からの収入補填で農業を行っていることになります。そういうヒトにとっては、集落営農もしない、個人として大規模化もしない、となれば、これまでもらえた補助金が減らされ、生活は苦しくなることが目に見えているわけですから、本当は選択肢はないはずです。
 もっとも、補助金をもらうためには、もうひとつ「生産調整」へ参加する、いわゆる減反に協力する必要もあります。ですから、補助金行政とはさっさと見切りをつけて、自前の農地でめいっぱいコメを作って売る、という選択肢もあるでしょう。しかし、この場合、農協は買い上げないでしょうから自主流通米とすることになります。高く売れればいいですが、昨今の情勢からして簡単なことではありません。
 あとは、離農ですが、こういった農家は、結局農地集積というものを避けている方が多い。自分の農地を確保し、自ら耕作することにこだわっている。
 「変わらなければいけない」のに「変わらなければいいのに」と言って、「変わらない」ことを期待しているようにも見えます。
 生活が苦しくなれば、離農して農地を売るか、集落営農に参加して補助金交付対象となるしかないのでしょうが、そんなにのんびりした制度でもありません。
 もっとも、集落営農がめでたく発足しても、問題があります。形だけ組織化した場合、本当に将来、法人になれるのか。なれなければ補助金は切られるのではないか(このあたりどうなるかはまだわかりませんが)、あるいは、法人化したはいいが経営に失敗する場合は?集落営農化したはいいが、面積要件をクリアできなくなったら?・・・結果的には、大量離農になってしまう可能性もあります。
 「それも含めて農地・農業のリストラだ」といってしまえばそれまでですが、今回の政策変更は結局そういうことです。(しかし、結果として、赤字で農業を続けていた人は離農させられることで経済的には上向くかもしれません)
 ところで、一説には、集落営農というシステムは、集落営農組織をみなし法人として課税することを企図しているとか・・・まあ、実際は、課税要件を満たせば課税される、そうでなければされない、というだけでしょうが、少なくとも法人化すれば課税対象となるわけです。
 ここでポイントなのは、個人の所得税と違い、「赤字でもかかる住民税」が課されること。
 もっとも、経営体質の強化をねらった誘導施策ですから、法人住民税くらい払えなければそもそも仕方がないわけです。四の五の言っても始まらない。
 ただ、農家が自前の農地にこだわるのは、戦後混乱期のような状況を想定しているから、かも知れません。そうなったら、生産手段を確保している者が強い。何らかの原因で闇市経済に陥るようなことがあれば、その時は有利になるでしょう。問題はそれまで経営がもつかどうか。だから、これも本気ならば、個人で大規模経営に踏み切るしかないというのが本当のところでしょう。(あるいは、集落営農に参加しても、土地所有権を確保さえしていれば、補助金交付システムが崩れ、集落営農組織が解散しても、自分の土地は残るのですから、やりようだ、という気もします。)
 まあ、ある意味農業は「生活文化」であって、「やめるわけにはいかない」という感覚もあるのでしょう。しかし、以前も議論しましたが、ここまで人口が膨れ上がってしまった日本では、たとえ何千年続いた伝統であろうと、終わらせることは仕方がないと、個人的には思います。文化を遺したいなら、それに特化した場所、組織、人が必要で、食糧生産は、効率性、生産性に特化したほうがよい。

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裁判:学者が学者を訴える

2006-05-19 23:58:10 | Weblog
 仕事で裁判をしたことがあります。そのため、裁判関係のサイトに興味があり、いくつか覗いています。
 面白系では「ネコ裁判」。もう少し堅いのだと「環境ホルモン濫訴事件:中西応援団」
 ・・・と思っていましたが、最近は後者も面白系になりつつあるような気が(そんな裁判で訴えられた中西先生には大変申し訳ない言い方ですが)。
 原告・被告の学問的・社会的背景から、原告が裁判を起こした理由やら、裁判そのものとは別の動機があるのではないか、とか(実際、原告はプレスリリースという形でそのことを表明している・・・というのがそもそもスゴイですが)、サイトの掲示板では様々な議論がなされています。(私も別ハンでちょこちょこっと書き込んで・・・いやいや)
 論点は大体出尽くしたような感もありますが、こちらのサイトで、面白い見方が提示されており、個人的には久々のヒットでした。
 いや、そんなはずはさすがにないでしょうが、何かしら陰謀論を語りたくなってしまうようなモノが、原告側に張り付いているように思えるのも確かです。
 ともあれ、私の見解はこうです。原告はここまで、訴えの事実=名誉毀損があったことを立証できておらず、原告の訴えは失当。ネコ裁判もそうですが、こういうことで裁判を起こされるのは本当にかなわない。

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農業:ポジティブリスト制

2006-05-19 23:50:00 | Weblog
FOOD・SCIENCEは、よく参考にしているサイト。本日は「衛生徒然記」から。
(以下引用)
 “有機”をこれほどまでに“安全”としてまつり上げることに疑問を感じるだけです。
 残留の薬剤は確かに問題とすべきことかもしれません。しかし、薬剤を使用しないことにより間違いなくリスクは発生します。この工場のように虫が発生してしまう、カビが生えるなど、誰でも容易に予測できることです。虫によっては病原菌を媒介するものもあります。カビ毒の問題もあります。これらはひょっとすると、残留薬剤の何倍も何十倍もリスクの高いことなのかもしれません。こうしたリスクも、残留薬剤も、場合によってはコスト高も全く容認しないという考え方は非常に“わがまま”のように思います。(引用ここまで)

 いや、多分、表立って「いいとこ取りしかしません」宣言しているヒトは、消費者レベルではあまりいないと思いますが、結果としての消費行動は、結局そうなっている。
 誰だって損したくないから、仕方ない面もあるでしょう。でも、奇麗事にすぎませんが、「安全」レベルを超える「安心」は、嗜好品にすぎないのですから、それなりの対価を払ってほしい。それをためらわない社会であってほしい。でないと、真面目な生産者が可哀相だと思います。
 あ、とはいっても、上記記事内で言及されている工場は擁護しません、念のため。リスク管理は適切にしないと。

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再び小山田いく

2006-05-19 23:45:24 | Weblog
 私が小山田作品を知ったのは、小学校入学前の「新入生おめでとう会」で配られた「少年チャンピオン」誌です。コドモだったので、二頭身キャラの出てくるマンガばかり繰り返し読んでいました。すなわち「らんぽう」「べにまろ」「すくらっぷ・ブック」です。
 その後、小学3年になり、近所に地域初のコンビニができたとき、「何かマンガを買いたいな」と思い、手に取ったのが「すくらっぷ・ブック」の5巻でした。
 登場人物の感受性の豊かさや博識さは、作者のそれの反映なのでしょうが、小学生のようなビジュアルの中学生の物語は、とてもあたたかく、まぶしく感じられました。季節感、空気感の心地よさとユーモアのバランスの良さが気に入り、本屋やコンビニで見かけるたびに購入し、早々に全巻を揃えました。思えばコレは、最初に全巻コンプリートをなしとげたマンガでした。
 小山田作品がきっかけで出来た友人もいます。彼とは二十代半ば頃まで夜通し語り明かしたりする仲でした。ある種、星のローカス的な関係ですかね。
 しかし、自分が中学生なり高校生なりになって感じたのは、小山田キャラは皆、作品年齢より大人だということ。感性もそれを表現する知識も、とても自分には及びもつかないものでした。
 ホラー作品へのシフトを期に、小山田コレクションはやめましたが、その後、復刊ドットコムでデビュー当時の作品や、コミックス未収作品の多かった衆楽苑のコンプリート版が出版されており、往時のファンの声が大きいのだなぁとうれしく思ったり、つい購入してしまったりしてます。
 しかし、やはり小山田全盛期は、「すくらっぷ」ですよね。続編といっていい「むじな注意報!」でも、「すくらっぷ」ほどキャラが立っていない気がするし(後半はよくなりましたが)。でも、かつての中学生が大人になって再登場するのは、やはりファンとしてはうれしく思います(ビジュアルは・・・レギュラーの秀やん・美幸夫婦はいいのですが、他は・・・)
 「すくらっぷ」は、秋田書店でもオンデマンド再販しているようですが、復刊ドットコムでは、青春モノ新作掲載で再販するとのこと。全巻持っているのですが、どうしたものか・・・。

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