シモキタのtokyoboy

下北沢に居を構える初老オジのエクスサイズ、呑み歩き、美術館巡りなどの備忘録生活記録ブログ、含む膝蓋骨骨折リハビリ記録。

東禅寺 & 江戸六地蔵 (東浅草)

2019-04-05 | 七福神シリーズ他

祝、第8,200番目記事アップ‼️

 

gooブログの新しいプラットホームで総記事数どう知るのか不明ですが… 

まだ梅の季節の訪問記です。

 

漸く訪問適ったこちら。

ロケ的に難しいと思っていたんですが、

オフィスの一つ、南千住から思いの外短時間、ったって20分は歩いていますかね、で辿り着きました。

曹洞宗のお寺、寛永元(1624)年創建

高輪の東禅寺には幕末イギリス公館が置かれて、尊攘派志士に襲われたりしていますが、

 

 

江戸期の主要街道の江戸入口守護のために置かれたという六地蔵、2.7mの銅造は同じ大きさ。

ここでは境内が狭いので一段と大きく感じられかする。

因みに他の六地蔵さんへの訪問総集編は以下の通り:

https://blog.goo.ne.jp/tokyoboy00/e/fb3c42de4437dd8ffb8b3595e5211c34

 

銀座木村屋さんの強い信仰を得ていることは境内を拝見するに知られ、

創業者夫妻という像の前には白梅が綺麗でした。

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深川七福神 2017三が日

2017-01-12 | 七福神シリーズ他

今年松の内、はほぼ三が日でないと七福神ご開帳には間に合わない日巡りで、

それでは天気予報も好いたらしい3日に出掛けましょうか、と、

選んだのは深川七福神。

既訪が4ヶ所、それでは門仲、富岡八幡宮内の恵比寿様から…

 

こ、混んでいる。

まあ隣接する深川不動さんと並び、初詣客が多いのは当然ですよね。

でも本殿左裏の恵比寿様は…

やっぱりDGR^^;、読みの甘さを反省しつつまあここは既訪(記事はこちら)だからとスルーしましたが、この時点で恒例の七福神色紙ゲットは行列の向こう側、人並みは切れないので断念。

 

家人の御朱印は本殿脇で頂けたのでラッキー、

未訪の冬木弁天堂さんに向かいます。

こちらはこの時期でないと気が付かない可能性大ですね。

実はこちら、「江戸六弁天」(紹介j記事はこちら)にして、私はこれで現存する5弁天さんにお詣り完。

 

この地名は江戸時代の木材業豪商の名前から来ていて、

宗派的には真言宗なのだとか。

それにしてもこの日、こうしたお寺さんるに安置された七福神にニ礼ニ拍手一礼をやってしまう人達のなんと多かったことか…

 

そこから清澄通りに出て、先ずはお詣りしたかった深川閻魔堂(別記事)に立ち寄り、

次は心行寺さん、福禄寿さまを安置するこちらも未訪。

こちらは元和2年、1616年開山、その後京橋から今の地に移ったそうです。

近くの料亭さんが鍋ものとか販売していて面白かったのですが…

 

先を急ぎます。

ここからはtokyoboy的には現代美術館~深川資料館エリア、二ヶ所既訪が続きます。

先ずは円珠院さん、大黒天(訪問記はこちら)。

とはいえ、これまではご開帳時期ではありませんからお姿拝見するのは初めて。

小さいお像が多いんですねえ。

横には大きな大黒天。

 

このエリア、院名の日蓮宗つの如何にも塔頭が幾つか在るのですが、

おそらくその本寺であろう「浄心寺」さんの横を回って北上すると毘沙門天の龍光院さん(訪問記はこちら)。

大きな毘沙門天の木造がおわします。

昭和50年復興のものだそうな。

 

さて、資料館通り、再び清澄通りを超えて別記事紹介の清澄庭園を通り、

そこから北上すると深川稲荷神社、コンパクトな造り。

隣の社務所は町内会事務所も兼ねてか立派なのは笑えました。

こちらは布袋尊で…

 

それにしても、この深川七福神、どちらかというと仏様に同定される神様が神社、逆がお寺におわす気がします。

この神社は寛永7(1630)年創建、これが深川が昔から集落として成立していたことを物語る、と説明書きがありましたが、それは些か無理筋では、と💥

要は最近の干拓地、ということですわな。

 

最後は寿老神、深川神明宮さんです(訪問記はこちら)。

小さな木造、でもちゃんと釣竿に鹿をはべらした像は寿老神社に安置され、

このエリアを開拓した深川某の名前を地名にするよう徳川家康が指示をし、

この神社、寿老神社の横には天祖神社の看板もありましたが、

深川村鎮守としてこの地におわします。

 

これで一通りお詣り、両国まで出て帰路に着いたのですが、

最後にルート案内その他のチラシを参考まで添付。

これまで訪問の七福神は御朱印料300円だったのですが、こちらは500円!

賽銭に加え、3,500円喜捨させて頂いたのですが、これって"濡れ手に粟"なんて言うと、ご利益失せるのでしょうか…???

 

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隅田川七福神、大国天・恵比須天 (三囲神社)

2016-01-19 | 七福神シリーズ他

三囲神社の様子、由来は先のリポートでご覧頂くとして、

この日は隅田川七福神巡りのゴールでお邪魔しました。

この日の訪問先では白髭神社と並んでこちらの参拝客はDGR。

恐らく地元鎮守、とかそんな関係もあるのでありましょう。

本殿に向かって左側奥にこの2神を祀るお堂がありました(冒頭写真)。

 

 

 

 

 

こちらの大黒天、恵比須天の由来は、

大国神・恵比寿神は越後屋(現三越)にまつられていたもの(隅田川七福神 参拝の案内より)

とあっさりしたもの。


確かに今回の七福神巡り、それぞれの神様の幟には「三越」の名前が見えました。

ここには”こいつ”も鎮座しています^^;

閉店した池袋店のものだそうな…

そして、三井家との関係はこちら

 

最後は本殿のぐるり、なんですが、

また国芳さんの碑を見損なっちまった

三本鳥居とか手水鉢も2枚目の写真、クリックして拡大すると見えますが…

3枚目に入っていませんかね???

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弘福寺: 隅田川七福神、布袋尊

2016-01-18 | 七福神シリーズ他

長命寺にほぼ隣接するこちら、黄檗宗のお寺で、

牛頭山と号します。弘福寺は、かつて隅田村香盛島(高森島)にあったを起源とし、延宝6年(1673)鉄牛道機禅師が黄檗宗弘福寺として創建したといいます。風邪除けの信仰を集める咳の爺婆尊もお祀りしている

そうで、今回訪問時も朱印状と共に、咳止めの飴も売られていました。

 

 

 

 

 

 

寺名など今回初めて知りましたが、立派なお寺。

伽藍は関東大震災で焼失し、昭和8年に再建されました。黄檗宗特有の唐風の特徴を持ち、本堂両翼にある円窓、堂前の月台、柱にかかる扁額など、他の寺院にはあまり見られないものです。

とのこと。

森鴎外も没後当初は津和野藩主の菩提寺である関係からこちらに埋葬されていたとか。

今は三鷹にある「森林太郎墓」はこちらにあったんですか…





さて、こちらの布袋尊の由来は、

黄檗宗で中国風の特色を持つ禅宗建物。布袋尊は七福神の中で唯一実在した中国の禅僧で弥勒の化身と言われる。
咳の爺婆尊像は、風外和尚が修行中、両親を偲び刻んだもので、風外の石像だから風にも強かろうと風邪除けの信仰を集めた(隅田川七福神 参拝の案内より)

とのこと。

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長命寺: 隅田川七福神、弁財天

2016-01-17 | 七福神シリーズ他

向島の長命寺、って言えば…

江戸っ子だったら誰でも知っている「長命寺の桜餅」。

tokyoboyも子供の頃、祖父母を買いに来たり、

長じて?は”買ってこい”という両親からのオーダーを受けてその辺に車ブン止めして公園内を駆けて向かったり、

その後人口に膾炙されるようになったのでしょう、順番待ちやら何やら入手困難となって何時の間にか時が経ちました…

 

 

 

 

お寺に話を戻しましょう。

こちらは天台宗で、

宝樹山遍照院と号します。長命寺の創建年代は不詳ですが、宝寿山常泉寺と号していたといいます。寛永年間に三代将軍家光が鷹狩りを行った際、急に病を催し、ここで休息をとり、境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したので、長命水の名を捧げられると共に、長命寺と呼ばれるようになったといいます。

が由来。

 

さて、こちらの弁財天の由来は、

三大将軍家光が、鷹狩り途中の腹痛を、寺内の井戸水で薬を服用し快癒したことから、長命水の名をいただき、寺号も長命寺とした。
弁財天は河(水)の神ということから蛇がお使いとして選ばれ、巳の日に参拝する風習が生まれた(隅田川七福神 参拝の案内より)

ということで、最近拝見のサントリー美術館「水の形」展の中で、弁財天の頭には蛇の身体に老人の頭が付く「宇賀神」が載る場合も多い、と知りましたので、蛇→弁財天→水の神というループが背景にあると思われます。

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向島百花園: 隅田川七福神、福禄寿神

2016-01-16 | 七福神シリーズ他

向島百花園は、文化元年(1804)佐原鞠鵜が開園しました。国指定文化財です。百花園に集まる江戸の町民文化を代表する文化人達の発案で隅田川七福神巡りが考案され、佐原鞠鵜が本草の神として愛蔵し信仰していた福禄寿尊が、隅田川七福神の福禄寿尊として、百花園庭内に祀られています。

が何故百花園なのに隅田川七福神と関係しているか、を物語っています。

個人的には凄く小さい時祖父母に連れられてきた記憶がありますが、初訪といって過言ではないほど昔の話。

 

この百花園、東武と関係があるのか、とぼんやり思っていましたが、今は東京都管轄なんですねえ。

 

江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804~1830年)に造られた庭園。庭を造ったのは、それまで骨とう商を営んでいた佐原鞠塢。交遊のあった江戸の文人墨客の協力を得て、旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園しました。
 
 開園当初は、360本のウメが主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどです。その後、ミヤギノハギ、筑波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。「百花園」の名称は、一説では、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたものです。

そして、

百花園は当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で、文人趣味豊かな庭として、小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なった美しさをもっています。
 
 民営としての百花園の歴史は昭和13年まで続き、同年10月に最後の所有者の小倉未亡人から東京市に寄付され、翌14年7月に東京市が有料で制限公開を開始しました。なお、昭和53年10月に文化財保護法により国の名勝及び史跡の指定を受けました。

とのこと。

この日は松の内だからか、入園無料でした!


なお、頂いたご朱印に「花やしき」とあってので、浅草のそれと関係あるのかしらん、と訝しく思いましたが、

元々こちらが「花屋敷」と開園当初から呼ばれていたもので、

その後浅草花やしきが開園した際の経緯は以下の通り:

江戸末期の嘉永年間(1848-1854)に植木屋・森田六三郎が始めた観覧用の庭園で、小沢詠美子著『江戸ッ子と浅草花屋敷: 元祖テーマパーク奮闘の軌跡』(小学館 2006)によると花屋敷と号をつける至ったことについて明治31年(1898年)に刊行した『新撰東京名所図絵』で先に向島百花園がすでに花屋敷を名乗っており、紛らわしいという苦情があっても東叡山主輪王寺宮の庇護でのご許可である、としていたことが記されているとしている。

だそうな。

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白髭神社: 隅田川七福神、寿老人

2016-01-15 | 七福神シリーズ他

白髭橋の墨田区サイド、橋の袂といったロケーション、

今では目の前に大林組の大きいビルも建ちましたが、今回お邪魔してその存在感あるなあ、と…

それにしても、のDGR!!

 

由来は、

白髭神社は、天暦5年(951)に慈恵大師が関東下向時に、白髭大明神の御分霊を当地に祀ったと伝えられています。天正19年(1592)には、時の将軍家より神領2石を寄進されました。

だそうで、祭神は猿田彦大神、今年の干支。

当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生まれた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が、文化12年に奉納したもので、其の信仰のほどが偲ばれる。明治40年には氏子内の諏訪神社を合祀した。(白髭神社由来より)

この神社が付近の地名の由来でもあるんですね。

 

さて、こちらの寿老人の由来は、

祭神の猿田彦命は、道案内の守り神ということから、お客を案内する千客万来、商売繁盛の信仰が生まれる。
隅田川七福神の中でなかなか見つからなかった寿老人を、白い髭の長寿として白髭大明神にあてたことから「神」としている(隅田川七福神 参拝の案内より)

ということで、些か無理やり感はありますが、

こちらを含む「隅田川七福神」は、そんな手合いが多いのであります^^;

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多聞寺: 隅田川七福神、毘沙門天

2016-01-14 | 七福神シリーズ他

2016年松の内でのお詣りを決めた「隅田川七福神」。

ルート的に北から回るか、南から上がっていくか。

先ずは鐘ヶ淵までローカル線?、東武スカイツリー線で北上してのこちら。

お寺に近付くに従って出入りの参拝客が多くなってきます。

 

 

ふむ、意外と小形な山門…

 

 

 

真言宗智山派寺院の多聞寺は、隅田山吉祥院と号します。創建年代は不詳ですが、天徳年間(957-960)には現隅田川神社付近にあり、大鏡山明王院隅田寺と称していたといいます。天正年間(1573-1591)に鑁海上人が本尊を毘沙門天として隅田山吉祥院多聞寺と改称したと伝えられます。

が由来。

 

さて、こちらに鎮座する毘沙門天さまの由来は、

本尊の毘沙門天は弘法大師の作と伝えられる。昔、村人達は本堂の前に住む狸の悪戯に悩んでいた。その村人を毘沙門天門下の禅尼師童子が狸を懲らしめ救ったという伝説が伝わる(隅田川七福神 参拝の案内より

とか。

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隅田川七福神: 2016年松の内

2016-01-07 | 七福神シリーズ他

と言っても、今年は三が日終わって翌日月曜ですから、三が日での訪問ではありましたが…

4月並みという記録破りの暖かさの中、東武スカイツリー線(馴染めないネーミングです)、鐘ヶ淵から業平橋(これも旧駅名を使わせて下さい)まで七福神巡りをしてきました。

この隅田川七福神とは…

七墨田川七福神は、向島百花園を開いた佐原鞠鵜が文人と始めたといわれています。元旦から七草(七日)までの開帳している期間にお参りをし、各寺社で各々の神様のご分体(400円)を購入して、それと宝舟(1000円)に乗せて、七福神巡りの印として、家庭で祀るのが本来の方法だといいます。

とのこと。これで”何故百花園が?”の疑問は解けます。

文化年間のこと、従いその歴史は200年ちょっと、ですかね。

 

 

更に、上記説明文の下となった「東京名所図会」のこの文章、良いですねえ

百花園主隅田川七幅遊の古板木を蔵す、七福神乗合の寳船を浮べて夕凪や波乗舟の音も静かなる、交番離れぬ都鳥の夢平穏に結べるの圖なり、摺物にして詣客の栞と為す。(東京名所図会より)

我々はご分体を頂くことはせず、色紙にご朱印を頂きつつ歩きました(冒頭写真)。

 

この七福神、4寺、2神社の内既訪だったのは三囲神社のみ(その時のリポートはこちら)。

子供の頃は毎年「長命寺の桜餅」を買いに行っていましたが、その長命寺さんにも伺ったことは恐らくない(少なくとも記憶には…)。

都内の有名どころの神社仏閣を集めることの多い「七福神」の中では珍しいことで、本記事アップ後、次々に初訪のところの記事をアップしていきます:

 

 

毘沙門天: 多聞寺

寿老人: 白髭神社

福禄寿: 向島百花園 (普段は白髭神社でお祀り)

弁財天: 長命寺

布袋尊: 弘福寺

大国天・恵比寿神: 三囲神社

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新東京八名勝

2015-11-11 | 七福神シリーズ他

板橋区赤塚にある古刹松月院さんに2回目の訪問をした際、

気が付いたのが山門脇にある「新東京八名勝」の石碑。

これが何か、というと…

昭和七年(1932)十一月一日、東京市は隣接五群八十二か町村の編入によって、これまでの十五区から三十五区になった。
新市域の八名勝を選ぶ計画は、報知新聞社によって東京市拡張を記念する目的と、同社の新聞発行二万号記念とを兼ねて行ったものである。
この選定は、同年八月より九月の一ヶ月にわたり、広く市民から募集し、投票によって決められた。

とのこと。この記述を見付けたHPによると、”洗足池は、528,049票で七位でした。”とあります。

その洗足池が7番目に表れるリストとは:

 

池上本門寺 既訪ですが、ブログ立ち上げ前ですね。

~ 高台の上、昔はさぞや広大な敷地だったろう、と想像が付きます。

選定時にはまだ羽田の海も近く、多摩川から富士山への眺望も効いていたのかも??


西新井大師 ジョギングで何度も訪問していますが30年以上前竹ノ塚在住の頃

~ そこそこの広さの境内、と立派な本堂は記憶に残っています。

後、牡丹かな…


北品川天王社  未訪 どちらが当たっているか不明なのですが”北の天王社”は品川神社… → 訪問記事はこちら、品川富士編はこちら

~ ちなみに”南の天王社”、荏原神社には未訪です。

品川神社であれば、文句なしに高台、選定時は東京湾まで良く見え、下には東海道ですからねえ(上記、品川富士編をご覧ください)。

記事内に「新東京百景」の石碑は見えますねえ…


日暮里諏方神社  訪問回数無数、紹介記事多: 本ブログ初訪はこちら、2013桜はこちら、2014初詣はこちら、2015初詣はこちら

 ~ tokyoboyが子供の頃は、諏方神社の境内から筑波山まで一望出来る環境にして、その反対側、有名な富士見坂からは特に冬の時期、富士山が綺麗に見えました…

 新宿区!のマンション建設で見えなくなる直前の様子にご興味あればこちらの記事で


赤塚松月院  訪問記事はVol1、Vol2

~ 千葉氏との関係が深いこちらは15世紀後半創建。

高台にあり、一旦下ってその向こうが旧赤塚城址、ですかね。


目黒祐天寺 訪問記事はこちら

 ~ 名勝、という切り口は現在のこちらから正直ピンとは来ません。

境内の猫の置物、でもないでしょうしねえ… 

 選定当時はまだ周囲に牧場とかあったのかな??

 

洗足池 初訪時はこちら、桜の時はこちら、洗足八幡はこちら


亀戸天神 初訪はこちら、藤棚編はこちら、春と梅編はこちら、スカイツリー編はこちら

~ ここはお庭の藤棚、とピンと来ますね。

今ではスカイツリーを見るスポットでもあります


となり、全て訪問済みでした


ちなみに、この八名勝が選ばれた時、「新東京選外十六景」というのも選ばれたようで…

新井薬師、大井の大仏、大宮八幡九品仏、三宝寺池(練馬区)、篠崎堤の桜、柴又帝釈天、善養寺の松、雑司ヶ谷鬼子母神の森、滝野川の渓流、哲学堂、豊島園、堀切の花菖蒲、丸子多摩川の丘、水元の水郷、目黒不動

のようです。

リンク貼ろうとブログ内検索するとまだまだ記事化していないところが多い(その昔に訪問している…)ことが分かります。

目黒不動に立つ石碑の写真も目にしましたので、いずれ、ね…

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