水上勉は、昭和32年9月から34年10月までの2年間を妻と子と下矢切で過ごしたため、「霧と影」「好色」「凍てる庭」「私の履歴書」など多くの作品に矢切の風景が出てくる。昭和23年に「フライパンの歌」を発表して好評を得たが、それから約10年間は、文学的な空白期で、「東京服飾新聞」の記者をしたり、洋服の行商をしていた。下矢切にいる頃、作家の川上宗薫氏と知り合い、川上氏の勧めもあって書いたのが、「霧と影」である。水上は行商からの帰り、台風で大雨の中、洪水の町を市川駅から下矢切まで歩いたため、膝上までの両足にかゆいかさぶたができる皮膚病になってしまった。医者にみせる金もないため、石炭酸をとかした水をバケツにため、そこに両足をつっこんで、「霧と影」を書いたという。
作家・山本周五郎氏の小説「青べか物語」(昭和36年 文藝春秋社刊行)は、現在の千葉県浦安市が舞台になっています。
物語では「貝と海苔と釣場で知られる根戸川の下流にある漁師町・浦粕町」として登場します。巻末の解説(文芸評論家・平野 謙氏)によると、同氏は実際に大正15年から昭和4年の春まで、齢23歳~26歳の時に同地で暮らしていたそうで、その当時の体験などが元となって綴られているそうです。 この物語は、同地に暮らす個性と人情味溢れるキャラクターたちの織り成す人間模様が、当時の浦安の風景描写とともに、30ほどのショートエピソードに綴られています。当時浦安(浦粕)は、「北は田畑、東は海、西は江戸川(根戸川)、南は“沖の百万坪”と呼ばれる広大な荒地がひろがり、芦や雑草の繁った荒地と、沼や池や湿地と、その間を根戸川から引かれた用水掘が通り、その先もまた海になっていた」…とあります。今では東京ディズニーランドのあることで名を馳せている浦安も、当時はこのような風景が広がっていたようです。
『川端康成・太宰治』の著者は、借家に夾竹桃を植えたか、玉川旅館に長逗留して作品を書いたか、それが太宰の船橋時代の二大ミステリーだとして、玉川旅館のことはこう結論している。「太宰治が果たして料亭「玉川」に二十日間逗留、執筆か遊興だったかは知らないが、そういう事実があったのだろうか。が、現亭主の伝聞を一応信じておこう。謎は深まったと言ったほうがいいかもしれない。・・・(ここからぱれっと)27歳のころ、盲腸炎がもとで薬の中毒症に苦しんでいた太宰治。海が近い船橋には、静養をかねて妻の初代と昭和10年7月から1年あまり住んでいた。現在の宮本1丁目辺りで、借家だったという。そこで「ダス・ゲマイネ」などの作品が書かれた。その太宰が、どちらかというと息抜きに自宅から歩いて15分ほどの場所にある「割烹玉川旅館」にやってきている。太宰が気に入っていた部屋は「桔梗」という4畳半に3畳の部屋がつながった小ぢんまりとした空間だ。ここに芸者を呼び、おいしい料理に酒で、晴れぬ気分を紛らわせていたのかもしれない。当時は、部屋から池があった庭にも出られ、まだ埋め立てられていない海へサンダルばきで行けたという。敷地内には舟着き場跡の石段が残っていて、その昔海が近かったことをほうふつとさせる。当時この周辺は、東京からの1泊2日コースの海水浴客でにぎわっていたらしい。建物は今ではめずらしい高床式の木造2階建てで、創業は大正10年。その後、数回増築をしているので、中はまるで迷路のようだ。
『埋火 -謙映院幾千子と堀田正睦-』 秋本喜久子 著 新人物往来社 2007
幕末の佐倉藩主・堀田正睦とその義母幾久子が、貧窮する佐倉藩財政を立て直し、幕府の要となり開国に携わっていく過程を描いた物語。江戸から佐倉の国元へ下がる際の千葉の風景描写や佐倉高校の前身である藩校の始まり、佐倉順天堂の開祖・佐藤泰然の人柄なども描かれている。現在の佐倉の様子を知らない人でも、主人公である二人の微妙な関係とその時代の女性の立場の複雑さは十分楽しめます.
作者の伊藤左千夫は千葉県山武郡の農家で生まれた明治後期を代表する小説家の一人です。本書は野菊の咲乱れる千葉県の田園風景を背景に描かれており、その素朴な風景がお互いに想い合う2人をとりまき、余計に悲しい出来事を引き立てています。また、主人公を視点としているのでとてもはなしに入りこみやすいです。とても切ない千葉県を舞台にくりひろげられた純愛、この感動を多くの人に読んでほしいです。
『四千万歩の男 全5巻』 井上ひさし 著 講談社 1992-1993
九十九里で生まれ、佐原の商家の婿養子となり代をなした伊能忠敬。第二の人生を子午線一度の長さを正確に測るため寛政12年(1800年)蝦夷に向けて一行を従え出発。毎日、五歩で二間、56歳から72歳までの17年間に地球1週をはるかに越える距離を踏破し日本地図を作り上げた。毎日の簡単な記録しか残されてはいないが、井上ひさしの手によって、歴史小説としても時代小説としても一級の読み物となっている。
『かくれみの街道をゆく -正岡子規の房総旅行-』 関宏夫 著 崙書房出版 2002
正岡子規が明治24年3月25日から4月2日にかけて房総横断旅行をした行程を「かくれみの街道」と名付けた。資料が充実しており、子規本人の青春譜として、また明治24年の世相、房総を読んだ子規自身の俳句もあります。
(四街道市)正岡子規句碑四街道市四街道1523(四街道駅北口広場内) 株式会社総武鉄道は明治27年7月、市川―佐倉間で県内初の鉄道を開業し、同年12月には四街道駅が開設された。開通後間もないこの年の暮、当時新聞記者であった、俳人の正岡子規は、日本新聞に紀行文「総武鉄道」を発表。四街道を読んだ句である「棒杭や四ツ街道の冬木立」を残す。昭和61年、四街道駅前広場の完成に当たり、記念の句碑が建立された。
『漱石の夏やすみ -房総紀行『木屑録』-』 高島俊男 著 筑摩書房 2007
「木屑録(ぼくせつろく)」は明治22年、学生だった漱石が23歳の夏やすみに友人4人と房総旅行に出かけ、その見聞を記した漢文による紀行文です。第52回読売文学賞「紀行・随筆賞」受賞作品でもあり、漢文で書かれた漱石の足跡や見聞の感想が分かりやすく解説されています。さらに、親友正岡子規の評価や、興味深い事実の数々もエピソードとともに解説されている。
『南総里見八犬伝』 曲亭馬琴 [作] 石川博 編 角川学芸出版 2007
全国的に有名な千葉県を舞台にした作品です。とてもスケールの大きな話で「これが江戸時代に書かれたのか」と驚いたのをおぼえています。「八犬伝」は、様々な出版社から子ども向けのやさしいものや短くまとめたものも出ていますが、これは、幅広い年代の人が自分にあったものとして読めるのでお勧めです。
作家・山本周五郎氏の小説「青べか物語」(昭和36年 文藝春秋社刊行)は、現在の千葉県浦安市が舞台になっています。
物語では「貝と海苔と釣場で知られる根戸川の下流にある漁師町・浦粕町」として登場します。巻末の解説(文芸評論家・平野 謙氏)によると、同氏は実際に大正15年から昭和4年の春まで、齢23歳~26歳の時に同地で暮らしていたそうで、その当時の体験などが元となって綴られているそうです。 この物語は、同地に暮らす個性と人情味溢れるキャラクターたちの織り成す人間模様が、当時の浦安の風景描写とともに、30ほどのショートエピソードに綴られています。当時浦安(浦粕)は、「北は田畑、東は海、西は江戸川(根戸川)、南は“沖の百万坪”と呼ばれる広大な荒地がひろがり、芦や雑草の繁った荒地と、沼や池や湿地と、その間を根戸川から引かれた用水掘が通り、その先もまた海になっていた」…とあります。今では東京ディズニーランドのあることで名を馳せている浦安も、当時はこのような風景が広がっていたようです。
『川端康成・太宰治』の著者は、借家に夾竹桃を植えたか、玉川旅館に長逗留して作品を書いたか、それが太宰の船橋時代の二大ミステリーだとして、玉川旅館のことはこう結論している。「太宰治が果たして料亭「玉川」に二十日間逗留、執筆か遊興だったかは知らないが、そういう事実があったのだろうか。が、現亭主の伝聞を一応信じておこう。謎は深まったと言ったほうがいいかもしれない。・・・(ここからぱれっと)27歳のころ、盲腸炎がもとで薬の中毒症に苦しんでいた太宰治。海が近い船橋には、静養をかねて妻の初代と昭和10年7月から1年あまり住んでいた。現在の宮本1丁目辺りで、借家だったという。そこで「ダス・ゲマイネ」などの作品が書かれた。その太宰が、どちらかというと息抜きに自宅から歩いて15分ほどの場所にある「割烹玉川旅館」にやってきている。太宰が気に入っていた部屋は「桔梗」という4畳半に3畳の部屋がつながった小ぢんまりとした空間だ。ここに芸者を呼び、おいしい料理に酒で、晴れぬ気分を紛らわせていたのかもしれない。当時は、部屋から池があった庭にも出られ、まだ埋め立てられていない海へサンダルばきで行けたという。敷地内には舟着き場跡の石段が残っていて、その昔海が近かったことをほうふつとさせる。当時この周辺は、東京からの1泊2日コースの海水浴客でにぎわっていたらしい。建物は今ではめずらしい高床式の木造2階建てで、創業は大正10年。その後、数回増築をしているので、中はまるで迷路のようだ。
『埋火 -謙映院幾千子と堀田正睦-』 秋本喜久子 著 新人物往来社 2007
幕末の佐倉藩主・堀田正睦とその義母幾久子が、貧窮する佐倉藩財政を立て直し、幕府の要となり開国に携わっていく過程を描いた物語。江戸から佐倉の国元へ下がる際の千葉の風景描写や佐倉高校の前身である藩校の始まり、佐倉順天堂の開祖・佐藤泰然の人柄なども描かれている。現在の佐倉の様子を知らない人でも、主人公である二人の微妙な関係とその時代の女性の立場の複雑さは十分楽しめます.
作者の伊藤左千夫は千葉県山武郡の農家で生まれた明治後期を代表する小説家の一人です。本書は野菊の咲乱れる千葉県の田園風景を背景に描かれており、その素朴な風景がお互いに想い合う2人をとりまき、余計に悲しい出来事を引き立てています。また、主人公を視点としているのでとてもはなしに入りこみやすいです。とても切ない千葉県を舞台にくりひろげられた純愛、この感動を多くの人に読んでほしいです。
『四千万歩の男 全5巻』 井上ひさし 著 講談社 1992-1993
九十九里で生まれ、佐原の商家の婿養子となり代をなした伊能忠敬。第二の人生を子午線一度の長さを正確に測るため寛政12年(1800年)蝦夷に向けて一行を従え出発。毎日、五歩で二間、56歳から72歳までの17年間に地球1週をはるかに越える距離を踏破し日本地図を作り上げた。毎日の簡単な記録しか残されてはいないが、井上ひさしの手によって、歴史小説としても時代小説としても一級の読み物となっている。
『かくれみの街道をゆく -正岡子規の房総旅行-』 関宏夫 著 崙書房出版 2002
正岡子規が明治24年3月25日から4月2日にかけて房総横断旅行をした行程を「かくれみの街道」と名付けた。資料が充実しており、子規本人の青春譜として、また明治24年の世相、房総を読んだ子規自身の俳句もあります。
(四街道市)正岡子規句碑四街道市四街道1523(四街道駅北口広場内) 株式会社総武鉄道は明治27年7月、市川―佐倉間で県内初の鉄道を開業し、同年12月には四街道駅が開設された。開通後間もないこの年の暮、当時新聞記者であった、俳人の正岡子規は、日本新聞に紀行文「総武鉄道」を発表。四街道を読んだ句である「棒杭や四ツ街道の冬木立」を残す。昭和61年、四街道駅前広場の完成に当たり、記念の句碑が建立された。
『漱石の夏やすみ -房総紀行『木屑録』-』 高島俊男 著 筑摩書房 2007
「木屑録(ぼくせつろく)」は明治22年、学生だった漱石が23歳の夏やすみに友人4人と房総旅行に出かけ、その見聞を記した漢文による紀行文です。第52回読売文学賞「紀行・随筆賞」受賞作品でもあり、漢文で書かれた漱石の足跡や見聞の感想が分かりやすく解説されています。さらに、親友正岡子規の評価や、興味深い事実の数々もエピソードとともに解説されている。
『南総里見八犬伝』 曲亭馬琴 [作] 石川博 編 角川学芸出版 2007
全国的に有名な千葉県を舞台にした作品です。とてもスケールの大きな話で「これが江戸時代に書かれたのか」と驚いたのをおぼえています。「八犬伝」は、様々な出版社から子ども向けのやさしいものや短くまとめたものも出ていますが、これは、幅広い年代の人が自分にあったものとして読めるのでお勧めです。