週五日記

ボチボチがんばります

世界認識の方法

2011-07-23 08:01:03 | Weblog

吉本隆明さんと、フーコーの対談が出ている

文庫本。

本のタイトルからして、かなりイッテいると思う。この本を

読もうと思った自分も、かなりタイトルのインパクトに

やられたのと、フーコーと、吉本隆明さんの対談をのぞいてみたい

、理解してみたいという『身に余る』欲望からだろうか、精神の自由の

欠如からだろうか?(笑)

 

『マルクスに始末をつける』というところがスタートで、

『マルクス自身』と『マルクス主義者』は分けて議論されている。

マルクス、あるいはマルクス主義が、なぜ『始末をつけないといけないほど』の

壁であったかというのは、(1)科学性が存在する(私が想像したのは、

例えば、労働価値説が、かなり数式っぽく現在でも理解可能な説である点)

(2)予言性(かなり、はずれた予言もあるらしいが、予言するという『かっこよさ』とか

『覚悟』がすごいからか)

(3)政治性(まあ、これは説明いりませんね。国家をつらぬくイデオロギー?だったりするので)

が要因ではないか、とのこと。なるほどなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 

あとは、マルクスの『資本家 VS 労働者』の図式が、なぜ二項対立なのか?という

問題で、『意志』をめぐる二人の議論が、白熱している。

 

二項対立という図式で簡単には、語れない。なぜなら、個人、個人が『意志』を

持っており、『○○せねばらない』というヒトもいれば、『おなかすいたなーー』のヒト

もいるわけであり、そんな簡単に『個人』の意志はまとまらない。

フーコーさんは、意志の問題について、『○○党』の問題を指摘しており、

集合的に団結して『党』を結成したら、『おなかすいたなーー』は『党』の団結を

優先事項として切り捨てているから、個人の意志は、問題としていないと

いうニュアンスだったが、吉本さんは、それでもなお、個人の意志は、『いずこへ?』という

ことをフーコーさんと議論したかったのではないか?、と栗本慎一郎さんの解説で

を読んで思った。

 

たぶん、フーコーさんが最後に触れていたように思ったが、吉本さんの

お仕事のうち、フーコーさんが感嘆しているのは、

『共同幻想』のあたりのことだと思うが、まあ、ここからは、

わたしも、ふわふわした理解でしかないが、(ブルータスの雑誌の拾い読み程度の理解)

『個人の幻想 VS 国家の幻想』というか、『個人 VS 国家』の『相互作用』とでもいおうか、

その辺も視野にいれて考えるべきではないか?ということではなかったのか?

これは、直感的に、『ギデンズの構造化理論』と関係するかもしれない、もっといえば

この辺を踏まえて、ギデンズは理論化したのでは?と直感的に思いました。(思いましたは、

科学的な態度ではないですが。月曜の若人たち(笑い))

コメント
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