吉本隆明さんと、フーコーの対談が出ている
文庫本。
本のタイトルからして、かなりイッテいると思う。この本を
読もうと思った自分も、かなりタイトルのインパクトに
やられたのと、フーコーと、吉本隆明さんの対談をのぞいてみたい
、理解してみたいという『身に余る』欲望からだろうか、精神の自由の
欠如からだろうか?(笑)
『マルクスに始末をつける』というところがスタートで、
『マルクス自身』と『マルクス主義者』は分けて議論されている。
マルクス、あるいはマルクス主義が、なぜ『始末をつけないといけないほど』の
壁であったかというのは、(1)科学性が存在する(私が想像したのは、
例えば、労働価値説が、かなり数式っぽく現在でも理解可能な説である点)
(2)予言性(かなり、はずれた予言もあるらしいが、予言するという『かっこよさ』とか
『覚悟』がすごいからか)
(3)政治性(まあ、これは説明いりませんね。国家をつらぬくイデオロギー?だったりするので)
が要因ではないか、とのこと。なるほどなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
あとは、マルクスの『資本家 VS 労働者』の図式が、なぜ二項対立なのか?という
問題で、『意志』をめぐる二人の議論が、白熱している。
二項対立という図式で簡単には、語れない。なぜなら、個人、個人が『意志』を
持っており、『○○せねばらない』というヒトもいれば、『おなかすいたなーー』のヒト
もいるわけであり、そんな簡単に『個人』の意志はまとまらない。
フーコーさんは、意志の問題について、『○○党』の問題を指摘しており、
集合的に団結して『党』を結成したら、『おなかすいたなーー』は『党』の団結を
優先事項として切り捨てているから、個人の意志は、問題としていないと
いうニュアンスだったが、吉本さんは、それでもなお、個人の意志は、『いずこへ?』という
ことをフーコーさんと議論したかったのではないか?、と栗本慎一郎さんの解説で
を読んで思った。
たぶん、フーコーさんが最後に触れていたように思ったが、吉本さんの
お仕事のうち、フーコーさんが感嘆しているのは、
『共同幻想』のあたりのことだと思うが、まあ、ここからは、
わたしも、ふわふわした理解でしかないが、(ブルータスの雑誌の拾い読み程度の理解)
『個人の幻想 VS 国家の幻想』というか、『個人 VS 国家』の『相互作用』とでもいおうか、
その辺も視野にいれて考えるべきではないか?ということではなかったのか?
これは、直感的に、『ギデンズの構造化理論』と関係するかもしれない、もっといえば
この辺を踏まえて、ギデンズは理論化したのでは?と直感的に思いました。(思いましたは、
科学的な態度ではないですが。月曜の若人たち(笑い))