教育は、
教えたいヒトが、まず最初にいて、
その人から学びたいヒトがいて、はじめて成り立つもの。
学びたいヒトありき、ではじまるものではない。
医療も同様。
それは、『情報の非対称性』の別のいいかたかもしれない。
特に、医療では、『ぼくが明日、治療しないと、大変なことになる』という
『緊迫感』は、お金や時間で、その代償を払いにくい。
にもかかわらず、『事業計画』とか、過度な『ペーパーワーク』
は、どうでしょうか?
ただ、一つ思うのは、弁護士等をはじめとする『士業』の世界は、
基本『営利』に、『社会公共的使命』を足してる感じで、
あまり問題がないような気もする。それは、『等価交換』に、医療・教育に比べて
なじみやすいからかもしれない。1時間いくら、の報酬体系が作り安い。
医療・教育は、その辺が難しいのか?でも、『体系』本もあるなあ。
内田先生が昨日のラジオで、メディアが教育・医療の崩壊を叫んだことに
よって、ずたずたになったというような趣旨で話していたが、
それは、崩壊したとはやしたてることで、『事件』にして、
紙面かせぎ?をしているのだろうか?
でも、『等価交換』、『営利』による効率性に、けっこう
毒されていて、『そっちが正しいかも』と思うこともあり、
『資本主義』が万能だと思っている『風潮』は、マズイよな、と思うこともある。
ただ、資本主義で教育・医療をやっても、『そこそこ』うまく
いってしまうので、なんとも、しようがないかもしれない。
ただ長期的スパンで見たときに、大きく問題が露呈するかもしれない。と思う。