ちょっと分かりにくい部分もあったが、
とあるブログの大筋は、以下の三点か?(いかにも、三点に要約するのが
わたしのスタイルではあるが)
(1)自分の欲望の程度を、自分自身で把握することこそ、労働からの
解放の第一歩ではないか?
(2)そもそも、『労働からの解放』を考えるということが必要なのか?
(3)(2)と重なるが、労働することは、人間の合理的選択ではないか?
わたしなりの考え。
(1)は、私も大筋同感である。一つだけ考えるべきは、
内田先生いわく、仕事はオーバーアチーブこそが本質ではないか、という指摘を
考えると、『欲望』は、コントロール不能の部分があって、具体的には、所ジョージさんの
世田谷ベースのように、ずーーーーーーーーーーーーーーと、車イジッたり、畑耕したり
料理つくったり、という『無我夢中』の感じになりたいということと、『欲望の把握』は
矛盾するのではないか?『把握』できないから『ずーーーーーーっと』やってしまうのではないか?
(2)については、『組織からのしがらみ』から自由になりたいということや、
違う言い方では、『野生』を持ち続けるというコンテクストでは、『程度の差』はあれ、
『労働からの解放』は求めるべきではないか?
(3)については、『組織のしがらみ』という目に見えない『取引コスト』が膨大で、
自分の心身が『ヤバい』状態になりそうであれば、田舎で野菜や果物を作るほうが
『合理的選択』である気がする。プラス、主婦のプチ稼ぎを夫婦でやれば、
月一で家族で『ジョイフル』で外食できるはず・・・(長男との二人暮らしでの経験で実感・・・)
と、いろいろ書いて、今朝、自転車に乗りながら考えたことは、
『個人が組織を選ぶ時代』になったのではないか?ということ。
組織が衰退して、個人がSNSで、ピン立ちできる時代になった気がする。
気がするだけですが・・・。