風の記憶

the answer is blowin' in the wind

暮色

2007-12-08 | 

Nikon F80  Nikkor ED70-300□□
山形県庄内町余目□□



昔ながらの庄内弁を聞く機会が少なくなってきたなぁ、と庄内に住んでいながら最近感じています。
市内から離れた周辺地区に行くと、お年寄りが話しているのを聞くことはありますが、それを除けば、いわゆる標準語に薄まったような遠慮がちな庄内弁ばかりになっているように思えるのです。
近年の急速な高速交通網の整備やインターネットの普及により、都市圏の情報がタイムリーに地方に届くようになり、共通言語としての標準語と地方の言葉を使い分けることの出来る人が増えることは良いことだとは思うのですが、何となく庄内の独自色まで薄まっているようで寂しいような気がするのです。


『ふるさとの 訛り懐かし停車場の 人ごみの中に そを聴きに行く』

石川啄木の有名な短歌です。
望郷の念絶ちがたく、ふるさと岩手の方言を聞きにわざわざ上野駅(たぶん)に出かけて行ってしまう、と言う寂しさパワー全開の啄木らしい歌です。
この弱々しさがたまらなくステキです。

ここまでではありませんが、私も帰郷の際にふるさとに向かう列車の中で庄内弁を耳にしたときに、一瞬にして目の前に庄内平野や鳥海山や日本海に沈む夕日が現れた気がして、涙が滲んだことを覚えています。


『ふるさとの 訛り無くせし友といて モカコーヒーは かくまで苦し』

寺山修司はこのように歌いました。
青森から一緒に大都市へ出てきた友が、不器用な自分とは違いスマートに都会言葉を操る姿を、喫茶店でコーヒーを前にして「ふるさとをそんなに簡単に捨てられるのか?」と納得しがたい気持ちを抱きつつも、当時の洒落た飲み物だったモカ珈琲に象徴される大都会の魅力に抗しがたい自分がいるジレンマが感じられます。


例えば、都会で暮らす庄内人が帰郷したときに、月山や鳥海山を見て季節の郷土料理などを久しぶりに味わうことで、ふるさとを感じることは出来ます。でも、やはり一番懐かしく感じるのは、ふるさとの人々の言葉に触れたときではないでしょうか。
ふるさととは何か、と言うことを考えると、結局、それは物ではなく人なのではないかと思うのです。飾らないふるさとの言葉はそこで生まれ育った人間の感覚を呼び覚ますのだと思うのです。
ふるさとの人情や四季、風物、文化など全てを一瞬にして感じることが出来るのは、ふるさとの言葉です。

都会に出て行った人のノスタルジーのために、ふるさとは変わるべきではないと言っているのではありません。ここにはここの生活があり、新しい情報や異文化を取り込んでよりよいものを作り出していくべきとは思います
ただ、遠い昔からここに住む人々の生活の中から生まれ、連綿と使われ続けてきた私たちの言葉(庄内弁)が無くなってしまうということは、ここには独自の文化も無く単に人口の少ない地方の街、というだけのつまらない存在になってしまうのではないか、という気がするのです。

代表的な庄内弁に「もっけ」「めじょけね」「やばちぃ」「やしょめる」「しょす」などがありますが、その情感のふくよかさを一言で的確に表す標準語は無いのです。それは大都市には無い素晴らしい地方文化なのだと思うのです。


『・・・・。郷里の言葉も、日に日に変化したり、長い間には消滅したりする。ことにテレビの普及は、村の言葉を加速度的に変えつつあって、私が二十過ぎまで使っていた言葉のいくつかは、もはや時代遅れになっているのである。
しかし私は、自分の中にある郷里の言葉をそう簡単には捨てる気になれない。それらの言葉を手がかりに、私はものを感じたり考えたりし、つまりは世界を認識したのであり、言葉はそういうものとして、いまも私の中に生き残っているからである。』

- 藤沢周平 -






※庄内弁の「もっけ」を的確に解説したブログ → takさんの「今日の一撃」



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コメント (4)
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