風の記憶

the answer is blowin' in the wind

春の順番?続き

2007-02-15 | 季節

山形県遊佐町丸子□□


前回のエントリーで私は、「春が来た」の歌詞の、春が来る順序が逆なのでは?と書いたのですが、 「もんぜんひつじ」さんから以下のようなコメントをいただきました。

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春は何処から来るのでしょうか?
当然下界の里や野の方が先なんですが、「昔の信仰」(今も残っている所もありますが)は
山の神が里に下りてきて田の神になり豊富な雪解け水で田や畑を潤し、収穫後は山の神
へと戻ってゆきます。
こういう山ノ神への崇拝から春は山から~となったと考えましたがどうでしょうか?
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このコメントを読んだ瞬間、はっとしました。

そうなのです。その通りだと思いました。
庄内地方の田んぼには「祠(ほこら)」や小さな「社(やしろ)」をよく見かけます。
(前回のエントリー写真に見えます。今回の写真は暗くて見えませんが、松木の中にあるのです。)
これは、春に山から下りてくる山の神を田んぼにお迎えし、田の神となって水を絶やさずに稲を見守って欲しい、という願いのためのものなのです。

春は、野や里に先に訪れ、そして山に上がって行く、というのは自然の現象を目で捉えたもの(つまりは雪解けや植物の芽生えの順番)ですが、農耕の民がその生活で春を感じるのは、山の神を田畑にお迎えし、そこから年が始まると感じるわけですので、山の神が降りてくる=春がやってくる、春は山から降りてくるものなのですね。


例えば、春の代表的な花と言えば、我々日本人にとってはなんと言っても「桜」ですが、その語源は(諸説あるようですが)、サクラの「サ」は田の神を意味し、「クラ」は「依代(よりしろ)」や「座」を意味するのだそうです。
つまりは「サクラ」とは田の神が降りてくる木という意味なのです。

「桜」が咲いて「春」がやってくる、と考えた場合、「桜」は「田の神・山の神」が降りてきて咲くのですから、春は山から里へ、野へ、となったのでしょう。

私が浅はかでした。単純な歌詞だと勘違いしていましたが、日本の信仰や風習、生活、人々の感情などが密かに息づいている素晴らしい詩なのでした。
高野辰之さんはやはり偉大な作詞家です。

「もんぜんひつじ」さん、ご指摘ありがとうございました。目が覚めました。(^^;)
浅学を恥じ入るばかりです。これからも色々と教えて下さ~い。(^^)/

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春の順序?

2007-02-13 | 季節

山形県遊佐町北目□□


最近、久しぶりに文部省唱歌の「春が来た」を聴きました。

いや~、懐かしいなぁ、良いもんだなぁ、と聴き入っていたのですが、聴いているうちに何かちょっと違和感を覚えてしまいました。

それは、この歌の歌詞、
『春が来た、春が来た、何処に来た。山に来た、里に来た、野にも来た。』♪

こ、これは・・・、春が来る順番が逆ではないですか~。(-へ-;)ヘリクツ?

雪国に住んでいると、春は雪が融けてゆきますので目にもはっきりと分かりますよね。
春が来る順番は、まず低い野に来る。次に里に来て、最後に山をせり上がってゆくように春はやってくるのです。

この歌を作詞した方はきっと雪のない地方の方だな、と思い検索してみました。

『作詞 高野辰之』

あれ? 
あの「故郷」や「春の小川」などを作詞した高野辰之さん?

じゃあ、長野県出身じゃないですか・・・。
う~ん、雪国の春を熟知しているはずですねぇ・・・。

じゃあこれはきっと、このほうが語呂がよかったのでこの順番なのですね、きっと・・・。
考えすぎたか・・・(-_-;A


でも、やはり、気がついてしまうと何かしっくりこないなぁ。(あー、しつこい (^^;))

と、言うことで、 『春が来た』酒田バージョンを作ってみました。

『春が来た、春が来た、何処さ来た。 港さ来た、田んぼさ来た、山(鳥海山)さ来たぁ。』♪

如何でしょうか、ちょっと訛ってみました・・・。

ちなみに、『春が来た』鶴岡バージョンはこの歌詞の山(鳥海山)→山(月山)にするだけです。


どーでも、いぃってが・・・、 もっけでした。。。(-_-;A by庄内弁


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雪国の心

2007-02-01 | 

山形県遊佐町白井新田□□


 2月になったというのに、庄内平野には雪がまったくと言っていいほどありません。
(写真は一昨年の2月のものです。)
こんな冬は、未だかつて無かったのではないでしょうか。少なくとも私の記憶にはありません。
お正月頃は、雪が無くて良いお正月だ、とか、今年の冬は楽で良いとか言う人がほとんどでしたが、さすがにここまで雪がないと戸惑いを感じてしまいます。
先日、あるお年寄りがこう言ってました。
「雪がねぐって、なんだが もっけだよだの~。」(雪が無くて、何だか申し訳ないようだね。)

雪が積もらないと嬉しいけど心配・・・。
それは雪国の人間の正直な気持ちです。
毎年冬は、雪との格闘の日々です。雪に苦しみ来る日も来る日も鉛色をした空を恨めしく仰ぎ見ます。けれども一方では、雪の美しさや、雪国ならではの風習や遊び、雪の中でしか感じることの出来ないぬくもりや優しさを分かち合い喜んでいることもまた事実です。
つまりは雪国に生きる人々は、雪を憎み同時に愛しているのです。

立春を過ぎてしばらく経った頃から、雪解けの微かな足音は密かに聞こえはじめます。
降っては融け、また降っては融けてを繰り返して固くなった雪が少しずつ崩れはじめ、やがてその雪解けの隙間にフキノトウが顔を出します。淡い緑色の小さな生命の塊、それを見つけたときの気持ちは言葉では言い表せないほどワクワクします。
その感動は、共に厳しい季節を乗り越えてきたものに対する共感と慈しみ、そして命の逞しさへの畏敬と憧憬なのです。

例えば、今は天国にいる私の祖母がフキノトウを見つけたら、きっとこう言うに違いありません。
「めんごいバンケ、今年も出はたの~。えらい、えらい、よ~ぐ さんぶなどご我慢して出はてきてくっだの~ぅ、ありがで、ありがで。(合掌)」
(可愛いフキノトウ、今年も生えてきたね~。えらい、えらい、よく寒いのを我慢して生きていてくれたね、なんとありがたいことでしょう。)

雪国の人間は口数が多くありません。滅多に自慢しないし、余計に褒めません。恨み言を声高にしたりせず、ひたすら我慢します。
しかしそれは、厳しい自然が育てた嘘偽りのない頑なまでの美意識なのだと、私は思うのです。
(酒田市出身の詩人、吉野弘さんはそれを「冬をもらう」と表現しました。冬をもらって、春をもらって、そうやって人間の精神は形成されて行くのだと。)
人には自分の思いをむやみに押しつけず、人間の誠を信じ、自然とは飾らない心で真摯に向き合う。それは生きること(=命)への誠実さ、優しさなのだと思うのです。

やがて本格的な春の訪れを迎えると、雪国ではあちらこちらでコブシやマンサクが、梅や桃や連翹が、そして桜が、遅い春を取り返そうとでもするように一斉に開花をはじめ、同時に森の緑は山肌を一気に萌え上がります。
閉じこめられていた生命が爆発するように踊り出す感動の春を体感出来る特権、それは自然が雪国に暮らす人々に与えてくれたご褒美なのです。

でも、今年の雪の無さではどうでしょうか。
きっといつもの年よりも春の喜びが少ないに違いありません。
雪国の人々が雪の無さに戸惑いを覚えるのも、そんなことが少なからずあるのだと思うのです。




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