コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

束の間の旅人 Ⅳ 長崎の街を往く

2019-04-14 | life






長崎港を一望に。大きな客船が停泊中だ。あの船は何処から来て、何処に向かうのだろう。南山手の丘のグラ―バー園に来た。
生憎、旧グラバー邸は耐震工事中で入れない。しばし園内を散策。
     あさ明けて船より鳴れる太笛のこだまは長し並みよろふ山
茂吉の代表的な歌の一首。私は茂吉のような歌にはどうも敷居が高い。いやいや全く力が及ばない。しかし、茂吉は好きだ。どことなく暁烏敏師にも似たようなところが・・・。私の亡き母の歌は茂吉のアララギの流れだった。





旧グラバー邸の周囲を囲むように、臨時に設けられた金属の足場のような通路から見学できる。下の石を敷き詰めた小径を眺めると、おや1カ所、何かが見える・・・?わかるかしら。(恋してる人にはすぐに見えますよ。)yo-サンなぞ、一発で。(w)今どき流行りのパワースポットだって。


やはらかな春の陽光を浴びて、坂道を街へ下りる。
瀟洒なお家が。おや、気持ち良さそうにネコちゃんがお昼寝。私にもこんなひと時がほしい・・・。



街に出て、長崎港へ。海からの風は少し冷たい。温かな珈琲でも。
おや、帆船かしら?この船は何をする船だろうか。


とても美味しいと有名な珈琲店のテラスで、海を見ながら戴く一杯は格別。カップには龍馬さんのお顔が浮かぶ。

半分ぐらい飲んでも、お顔はまだ崩れずに。楽しくて美味しいひと時。



ゆっくりと街を歩く。
街中を流れる小川のせせらぎ。思わず

  わくら葉を今日も浮かべて 街の谷 川は流れる
  ささやかな望み破れて 悲しみに染まる瞳に 黄昏の水の眩しさ・・・♪
を口遊む。(古いねぇ。yo-サン、美樹さんの隠れファンでした。)



シスターになると言ひ来て去りし君五十年(いそとせ)を経て今は何処(いずこ)に

今は昔、恩師に頼まれて束の間の、夜学の高校の代用教員(啄木流に)をした。文芸部の顧問をもさせられた。部員の一人に、信州から集団就職で来て、昼は紡績で働いている女生徒がいた。彼女は就職の翌年の入学なので、大方の同級生より1年の年長であった。
いつも物静かで、何処か寂しげであったが、部の「ともしび」という文集の編集委員もしていた。自らもツルゲーネフの「初恋を読んで」という感想文を書いたことがあった。

夜学なので4年制であったが、4年の後半には、部へもあまり顔を出さなくなった。私は基本的には週3、4日ほど、現代国語を担当する講師なので、担任もなく、生徒の詳しいことなどはあまり知らなかった。彼女も実家のことや、仕事のこと、卒業後の進路など色々とあるのだろうと思っていた。
卒業が近づいた2月の中頃のある日、珍しく彼女が部にやってきた。そして徐に「先生、文芸部で先生から啄木のことを教えて頂いたことが心に残っています。私は、卒業したらシスターになります。長い間お世話になりました。」と言い残して去った。「えっ、シスターに!?」と私は言ったが、彼女は微笑んで頷いただけであった。
部員と言っても小人数だし、部としての卒業生を送る何かをしなかったと思う。卒業式が終り、生徒たちが教室に戻る時、彼女は私の所に来て、「夜学に来て先生と会えたことが、とてもよかったです。」と一言残して、後はもう振り向かずに仲間の所に小走りに駆けて行った。
私も、その年で講師を退任した。新年度に恩師は校長になられた。私も身辺色々とあって、彼女のことは忘れていた。一度、彼女の後輩の生徒が訪ねて来て、彼女の話題に及んだが、「長崎の修道院に行ったとか・・・」程度しか知らなかった。
まあ、一人の教え子のことなので、その後は詮索することもなく、やがて半世紀にもなる。僅かに、彼女の出身地は北佐久とだけは記憶に。たぶん、藤村の「歌哀し佐久の草笛」の印象からだろう。
もし、彼女が健在なら、今は、このシスターぐらいではないだろうか。なんて、ふと・・・。旅は色々なことを蘇らせる。yo-サンの長崎の旅はもう少しつづくようだ。



コメント (6)