長崎から大宰府へときた。
緩慢な更新で間延びしてしまったが、いい加減、これで本シリーズ「束の間の旅人」のピリオドを打ちたい。まだ改元前で「令和」など知る由もなかったし、仮に改元の後であったら、尚更来なかっただろう。「梅花の宴」所縁の「坂本八幡神社」はスルーした。
私は天満宮に参詣のために来た。元々神社へ詣でることはあまりない。菅原道真公は学問に秀でた方であったそうだ。なので敬意を表しに来た。今更もう賢くもなれませぬが。
「令和」という元号は何だか好きになれない。改元フイバーもいやだ。改元や天皇までも政治利用する、あのドヤ顔や、悪代官や越後屋さながらの人相を見るのもいやだ。彼らのいう「令和」の意味は私が受ける印象とは違う。考案したという学者も人間的に好きになれない。
福井は天神様崇拝が凄い。男の子が誕生すると天神様のお姿を描いた掛け軸を購入する。(孫渡し道具の大事な一つ。)1月25日の天神講には、この掛け軸を床の間に飾り、道真公の好まれた焼カレイを供える。お魚屋さんやスーパーの店頭は焼カレイ一色になる。半夏生の焼鯖と同じ感じ。それは、天神様は学問の神様だからである。そのせいか、子どもの学力日本一はいつも福井県。それもご利益かしら。(w)
薄水色の素無地の上に 琥珀の帯の素敵なあなた
天満宮の境内を行く 振り向かないで大宰府の人
(いつもの、振り向かないで・・・♫大宰府バージョンでした。)
(丹後縮緬の素無地のお着物の背に、染め抜きの一つ紋が見えます。帯は西陣の、織九寸と拝見。準礼装ですので、何かお祝い事でもお有りだったのでしょう。)
天神様にお別れして、参道をぶらり。
造りのよい、いいお店。弊店も次のリニューアルの参考に。その頃はもう私はいないかしら。さもありなん。
少しお疲れモード。今宵は博多泊、早めにホテルへ入り休養して博多の夜などを・・・。
それで、大宰府にさよならであった。
実は今度の旅は、二つの目的があった。まずは既述のように長崎へ。もう一つは、筑紫は柳川に住む、いわゆるネット友達とも以前から「一度会えたらいいね」などと言っていたので
訪ねたいと思っていた。しかしながら、彼も丁度車中泊での長期の旅に出てしまったというメールが来て、柳川行きは中止して博多に。いつも、ふと思い立って旅に出るので仕方なきことである。
まだ、あれこれと尽きないが、何だかしんどくなってきた。又何かの機会に記すかもしれない。と言う訳で、些か端折って・・・。
福岡は今日も晴れだった。小松便は満席。
機上の人となったyo-サン。福岡市を眼下に。
お土産に博多美人を二人も連れてきたよ。(w)
これまで、ネットで知り合った方達とは本当に佳き出逢いであり、思い出であった。信州安曇野のMさんは、私の信濃路を旅した時に1日お付き合いして頂いた。彼は「遠くの親戚がきてくれたようだ」と歓待して頂いた。
又、別の機会に娘と孫たちとで信州へ出かけた時には、今度はやはり信州塩尻のNさんに宿の紹介など、とてもお世話になった。当日は信州産フルーツをどっさり差し入れして頂き感激した。とても洗練された美しい方だった。
残念ながら、お会いする約束をしながら、先立たれれてしまった方も二人あった。私も既に晩年である。会いたい人には会い、行きたい所には行っておきたい、と、しみじみと思う日々である。
令和、私も印象が悪いです。
「巧言令色鮮し仁」の令じゃないですか。
といっても、あの人達、漢字が読めないし意味も分からないかも、です。
振り向かないでの女性、色無地一つ紋という装いですね。
素無地というのがよく分からなくて、調べてみましたら地紋の入っていない生地のことでした。
縮緬には地紋は入れられないとも。
勉強になりました。
ありがとうございました。
仰る通りです。最初、KY(Kは漢字のこと)とも書いたのですが少し修整しました。
国書(万葉)から、としきりに言ってましたが、漢字そのもが中国からなんですのに。
明治がお好きなようなKYさんですが、明治の精神は漢学的教養がその下地ににあった
と思います。それすらお知りにならないのですからね。
国書・国書と言いながら、その文字は漢字。仮名さえ漢字を元に作られたのですのに。
恥ずかしながら、子どもの頃から織物(福井は明治以来の織物産地)、反物が身近な
生活の場にあったものですから。一見して直ぐに分かってしまう自分もイヤですねぇ。
どうも有難うございました。